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瞳の形態学 ―似顔絵制作試論

2020年1月 種田元晴

*福笑いの楽しみ

お正月の遊びとして伝統的に楽しまれるものに、福笑いがある。目、鼻、口・眉などの主要なパーツを、のっぺらぼうの顔の上に目隠しをして配置し、その顔面の崩壊具合を、変な顔であるとして笑う。

もとより、おかめやひょっとこなど、どう上手く完成させてもおかしな表情しかつくりえないものが主なので、はじめから変な顔を笑うつもりではじめる遊びである。考えてみれば、残酷な遊びである。

ふと、変な顔ってそもそもどんな顔だろうか、との疑問が湧いてくる。福笑いのルールに従えば、目・鼻・口・眉 などの主要な顔面構成要素が見慣れた位置関係にない場合、変な顔だと認識されるということになる。

ここでいう見慣れた位置関係とは、概ね、左右の耳の中心を貫く水平線と頭頂とあごを結ぶ垂直線の交点に鼻があり、その左右に目と眉があって、鼻の下に口があるといった程度のものである。

筆者は、似顔絵描きを趣味にしている。似顔絵は、ある意味では福笑いに似ているところがある。

もちろん、福笑いとはちがって目隠しをして描くわけではないから、似顔絵では、目・鼻・口・眉などの顔面構成要素が見慣れた位置から著しく外れることはない。

しかし、顔面構成要素相互の位置関係の微妙な差異や、顔面構成要素自体の形態の微妙な差異の組み合わせによって各人の顔のユニークさを捉える作業は、福笑いの楽しみに通ずるところがある。

確かに、目・鼻・口・眉などの形態とその位置関係によって、顔の概形は定まる。しかし、真にその人の顔面の魅力を引き出すためには、仕上げとして、黒目、つまり瞳をどのように描くか、に細心の注意を払わねばならない。まさに、画竜点睛である。この点、あらかじめ瞳が描かれた目を配置する福笑いよりも、似顔絵の方が奥が深い。

本稿では、似顔絵を描く立場から、顔面の印象を構築する形態要素としての瞳の重要さを、少々論じてみたい。

*可愛い瞳と凛々しい瞳

流行りのセリフではないけれど、世の中には二種類の人間しかいない。それは、内斜視か、外斜視か、である。

「斜視」という用語は、厳密には、眼科疾患をさす言葉である。日本弱視斜視学会のウェブサイトによれば、二つの眼球は通常、同じ場所に向かって視線がそろうものであるが、斜視とは、右眼と左眼の視線が違う場所に向かっている状態をさすのだという。

似た言葉に「斜位」というものもある。これは、ふだんは両眼とも同じ場所を見ているのに、片眼ずつ調べると視線がずれている状態をいうらしい。なお、わずかな斜位はほとんど人にみられるという。

つまり、正面を見つめたときに、瞳の位置が両目ともまったくど真ん中にそろう人はほとんどいないということである。人の顔が微妙に左右対称でないということと同じく、瞳の位置も左右で微妙なずれがあるのである。

ただし、ここでは疾患としての斜視を問題とするわけではない。誤解を避けるべく、以下、内斜視気味の瞳のことを「内寄りの瞳」と表し、外斜視気味の瞳のことを「外寄りの瞳」と表すことにする。

結論を先に述べてしまえば、筆者の独断によれば、内寄りの瞳は可愛らしく見え、外寄りの瞳は凛々しく見える傾向にある。話を分かりやすくするため、拙作の似顔絵でその代表例を示してみたい。

図1は映画『マレフィセント』で主役の魔女を演じたアンジェリーナ・ジョリーの似顔絵である。これが内寄りの瞳の代表例である。

図1 『マレフィセント』のアンジェリーナ・ジョリー(筆者作画)

図2は壮齢となってもスタントなしのアクションを続けるトム・クルーズの似顔絵である。これが外寄りの瞳の代表例である。

図2 壮年のトム・クルーズ(筆者作画)

なお、私見によれば、コーカソイド系の人びとは、目の内側先端の涙丘と呼ばれる部分が大きいため、概して瞳が外寄りに見える傾向にある。アンジーは複雑なルーツを持つために、内寄りの瞳となっている。

似顔絵を描く場合、この瞳の内寄り/外寄りの位置を誤ると、まったく別人の顔となってしまう。例として、図3をご覧いただきたい。これは筆者が10年ほど前に、当時還暦を迎えた沢田研二がかつての衣装をまとうとどうなるか、と妄想しながら描いたものである。

図3 壮年の沢田研二(筆者作画)
図4 偽ジュリー(筆者作画)

沢田研二は、外寄りの瞳を持つ。ゆえに、凛々しめな顔つきとなっている。では、瞳の位置を変えるとどうなるか。試しに、彼の瞳の位置を微妙に内側に寄せてみた(図4)。ジュリーの衣装を被ったニセモノとなる。瞳の位置が顔の印象をいかに決定づけているか、ご理解いただけたことと思う。

*似顔絵の悪意

似顔絵はデッサンではない。対象の形体、陰影、質感のありようを適切にとらえ、狂いのない構図で紙に鉛筆をのせる作業をいかに上手にやろうとも、まったく魅力的なものとはならない。

一方で、似顔絵であっても、対象をよくよく観察しなければならない点は、デッサンに通ずるものがある。ただし、対象と向き合う態度が、デッサンとは異なる。

デッサンとは異なる似顔絵に必要な態度とは、対象への悪意である。悪意とはすなわち、本人がコンプレックスに思っているかもしれないことを、無遠慮に強調することである。

ただし、悪意といっても、愛を伴ったものでなければならない。いかに熟練の描き手であろうとも、愛のない似顔絵を描くとき、それは描き手の作風にまみれただけの、誰でもない顔となってしまう。悪意にまみれた手つきで極力少ない線によって描くことで、写実的なデッサンとは異なる味わいを醸すことができる。

例えば、図5に示した伊東四朗の似顔絵をご覧いただきたい。彼の顔を描くうえで重要なポイントは、内寄りの瞳と右頬の傷である。いかに輪郭をそれらしく整え、目・鼻・口・眉の位置や形を調節しても、この二点を押さえなければ伊東四朗たりえない。

図5 『おかしな刑事』の伊東四朗(筆者作画)

内寄りの瞳は、可愛らしさを醸し出す。伊東のコミカルなキャラクターは、内寄りの瞳によってもたらされたものであると推察する。その瞳が外寄りであったら、彼は強面俳優としての道を歩んでいたかもしれない。

ちなみに、伊東の頬の傷は、幼少期に事故でできたものらしい。この傷のせいで就職活動に失敗し、暇を持て余して演劇を見ていたことがきっかけで芸能界入りを果たしたという。コンプレックスを美徳に変えた事例といえるだろう。似顔絵の悪意は、このような本人にまつわるドラマに想いを馳せたものでなければならない。

*ルネの少女画

2019年末、岡崎市美術館でたまたま「Roots of Kawaii 内藤ルネ展」という展示を見た。少女雑誌のファッションイラストレーターとして名高い内藤ルネ(1932-2007)の作品300点余りを出生地である岡崎に集めた、大規模な回顧展であった。

ルネの描く少女画は、それ以前の少女画とは一線を画すものであった。それゆえに、「今や世界中に広がる日本独自の「Kawaii」文化の原型をつくったアーティスト」であると展覧会では評されていた。極端に小さい顔に巨大な目を描き、ボリューム感のある髪形をのせ、長い首を伸ばした独特な画風の少女の絵がずらりと並ぶ。

似顔絵を描く立場からより興味深く観察したのは、目の大きさではなく、その中の黒目=瞳の描かれ方である。ルネの描く少女の瞳はすべて横を向いていた。

「可愛い」のルーツであるならば、瞳は内寄りであるはずでないか。そのような仮説のもと、全作品を鑑賞した。

じつは、瞳が内寄りか外寄りかは、正面を向いているときよりも、瞳だけを横に流したときの表情からの方が判別しやすい。例えば、左に視線をやった時、内寄りの瞳の持ち主は、左目(手前の目)の白目の部分よりも、右目(奥の目)の白目の部分が大きくなる。

ルネの描く少女の瞳は、瞳=黒目の部分が大きすぎてなかなか判別しづらいが、やはり、左向きだろうと右向きだろうと、奥の目の白目の部分が手前の目の白目よりも、ほんの少しだけ大きかった。

展覧会では、ルネの絵のルーツを示すべく、ルネの師にあたる中原淳一(1913-1983)の少女画や、さらに以前の、大正、昭和初期の竹久夢二(1884-1934)、蕗谷虹児(1898-1979)、高畠華宵(1888-1966)などによる少女画も展示されていた。興味深いことに、これら先人の絵の少女の瞳は、いずれも、外向きの瞳を持つのだった。
 
ひょっとすると、瞳の位置には時代の流行があるのではないか。そういえば、ルネよりも後の鳥山明や桂正和といった現代の漫画家による女性のイラストは、原則として内寄りの瞳で描かれている。

もしかしたら、内藤ルネの活躍した1970年代頃を境に、女性の瞳の流行は外寄りから内寄りへと変化しているのではないか。そのような仮説が思い立った。

*俳優の瞳

女性の瞳の変遷を探るべく、試みに、戦後~現代まで続く老舗の日本映画賞であるブルーリボン賞の主演女優賞受賞者の瞳の位置を、インターネット上の画像をにらみながら判別してみた。その結果を表1に示す。

表1 ブルーリボン賞主演女優賞受賞者の瞳(重賞者は初出のみ記載)(筆者作成)

1950年代から70年代末に至るまで、女優のほとんどは外寄りの瞳の持ち主だった。

ここでもやはり、1950年代は、進駐軍の占領期から復興期にあたり、米国からの文化的な影響が色濃く移入されたと思われる時期である。おそらくこの頃の日本の映画界は、アカデミー主演女優賞に輝いたイングリッド・バーグマンオードリー・ヘプバーングレース・ケリーといった彫りの深い米国女優の顔への憧れを抱いていたのではないか。彼女たちのような外寄りの瞳を持つ、原節子高峰秀子といった洋装の似合う凛々しい顔立ちの女優の活躍が目覚ましい。

1960~70年代には、吉永小百合のような内寄りの瞳の女優が登場する一方で、依然として外寄りの瞳が人気である。その一人である浅丘ルリ子は、外寄りの瞳の少女画を描く中原淳一に見出された俳優であった。
それにしても、山田五十鈴岩下志麻など、往年の内寄りの瞳を持つ女優は、和装がよく似合う。

80年代から徐々に内寄りの瞳の女優が目立ちはじめ、やがて2010年代になると、ついに女優の大半は内寄りの瞳の持ち主となった。

先に立てた仮説はどうやら概ね正しそうである。だんだんと、凛々しさから可愛らしさへと、女性の顔立ちの主流は変化しているようである。
ちなみに、女優ではないが、女性アナウンサーの大半も、内寄りの瞳の持ち主であるように見受けられる。先の伊東の例ではないが、内寄りの瞳が醸す可愛らしさは、相手への警戒心を和らげるようである。

なお、男優についても同じくブルーリボン賞主演男優賞受賞者の瞳の位置をひととおり検証してみたが、こちらはどうやら時代を問わず、外寄りの瞳を持つ凛々しい顔立ちが好まれるのらしいことがわかった。

一方で、私見ながら、近年の男性アイドルには、内寄りの瞳の持ち主が少なくない。このことは、ダイバーシティが広く受け入れられるようになった社会情勢とも、あるいは無関係ではなのかもしれない。

初出:『同時代』第4次第3号(2020年3月発行)


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