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残り4日。バスキア展 メイド・イン・ジャパン

ジャン=ミシェル・バスキア、日本初の大規模展に約130点『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』が、9月21日から11月17日六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリーで、日本では初となるジャン=ミシェル・バスキアの大規模な展覧会が行われています。

アンディ・ウォーホル、キース・ヘリングといった時代を象徴するアーティストと交流し、1980年代のニューヨークのアートシーンで旋風を巻き起こしたバスキアは、わずか27歳で命を落とすまでの10年の活動期間に3000点を超すドローイングと1000点以上の作品を残したバスキア。

バスキア展 メイド・イン・ジャパンの展示作品は世界各地から集った約130点の絵画やオブジェ、ドローイング作品で構成される。キュレーターはバスキア研究の権威であるディーター・ブッフハートが務め。ブッフハートが共同キュレーションを手掛け、昨年にロンドンのバービカンセンターで開催されたBasquiat: Boom for Realは1982年の開館以来歴代1位の動員数を記録している。

20世紀の最後の巨匠。

グラフィティからNYアートシーンのスターにコンセプチュアルなグラフィティ作品を手掛け、若い頃からアーティスト活動を始めたバスキア。ニューヨークのアートシーンで注目され、すぐにギャラリーでの展示が行なわれるようになった。バスキアの作品は近年アメリカのアーティストとしてはもっとも高額になっているが、没後しばらくはそれほど評価が高くなく、評価が上がったのは21世紀に入ってからだという。

黒人アーティストというレッテルを嫌った男

バスキアは自分を黒人アーティストと呼ばれることを極端に嫌っていたということ、そしてアーティストとして有名になるというオブセッション(強迫観念)が人並み以上に強かったということだ。当時のニューヨークのアート界はいまよりもさらに白人男性で固められた世界で、彼の声に耳を傾けてくれる理解者は白人ばかりで彼自身そのことに疑問を持っていなく、加えて周囲も彼が黒人であることを意識していなかったというのだ。しかしこれは、彼が黒い肌のアーティストであったがゆえに、黒人の音楽や文化や歴史、黒人選手が活躍するボクシングや野球をテーマにした作品をつくることができるというパラドックス(逆説)的な特権も持っていて、彼の題材の領域もかなり広い範囲に及んでいた。バスキアの絵はグラフィカルなイメージと断片的な文字がリズミカルに混在しており、時に一見すると関係なさそうな言葉が重なり合い暗号化されていて、そういった荒削りにも見える若きインテリジェンスが当時のアート界にとって刺激的だったのだ。

バスキアの作品を注意深く見ると、その多くが中心となるものを真ん中に置くという感覚が薄く、画面上でどの部分もわりと平等に取り扱われていることに気づく。また、イメージや文字が自由に散りばめられているのは、サイ・トゥオンブリーやフランツ・クラインから強い影響を受けていたと言われるバスキアが、ストリートのグラフィティ・アート的なアクションをキャンバス上に持ち込んでいたと考えていいのかもしれない。

政治的、社会的、人種問題などいくつかの違ったテーマが、文字やシンボルによって暗号みたいに潜んでいるところがバスキアの作品の魅力。

そのひとつずつに意味があり、それぞれをつなぎ合わせると、彼がただ闇雲にそういったシンボルを羅列していたのではなかったことがわかってくるはずだ。しかし、それでも空気をつかむ感じで決して晴れたように理解させてくれない。ワイルドな色でイメージも強いから表面的には強く見えるけれど、じつはとても詩的な奥深さがある。ひとりのアーティストの思考や意識の流れが反映されているかのようで、まるでパズルを解いていくように見るものを引き込む力がある。

日本とバスキアの絆

バスキアは、「Yen」のようにバブル景気を迎えていた80年代の日本の世相を反映したモチーフや、ひらがなを作品に取り入れ、度々来日して6回の個展や10のグループ展を開催した。本展では、バスキア研究の世界的権威ディーター・ブッフハート氏が、こうしたバスキアと日本との多方面にわたる絆、そして日本の豊かな歴史や文化がその創作に及ぼした知られざる影響を明らかにします。

アーティストとしての先行きを決定づけウォーホルとの関係性

スタジオでのバスキアはほぼ毎日ノンストップで絵を描いていて、壁にはつねに10作ほどが立てかけてあり数日間は寝ないで仕上げていたという。テレビは始終つけたままで、ステレオも大音量でジャズのレコードが鳴りっぱなし。チャーリー・パーカー、ケルアックやバロウズといったビート族から影響を受け、解剖図や歴史書を片手に直接キャンバスに描き写した。床に置いたキャンバスの上を素足で歩き回り、わりと大柄だった彼は、独特の姿勢で身体をつねに動かしながら即興的に大量の作品を生み出していったという。そのように身の回りや日常の出来事、テレビのアニメや音楽をインスピレーションの源としながら、それを様々な角度から料理するように制作するのが彼のやり方だったわけだが、完成していた作品でさえも、数日後にはすべて塗り直されていたこともざらにあったという。

存在、生き方、考え方、スタイル、人脈などすべてにおいてバスキアの憧れだったウォーホルこそ、アート界の象徴的なキングである。1983年頃にウォーホルと知り合ったバスキアは、その数年後には共同で絵を制作するまで親しい間柄になっていたのだが、このことはバスキアにとっては大きな出来事だったに違いない。ゆえに、この二人の仲が暗礁に乗り上げたまま先にウォーホルは逝ってしまったことでバスキアは孤独感を深め、精神状態も不安定になり結果的に命を落とすことになった。

白人至上主義の現代アート界のコアな部分にたったひとりで入り込み、若さと才能だけで独自のアートの領域を築いていったジャン=ミシェル・バスキア。自身が心から待ち望んでいだアート界の王冠をかぶることになるのは、彼が亡くなってからかなりの年月が経ってからであった。

ZOZOの前代表取締役社長前澤友作氏が2017年に約123億円で落札した事で世界的に有名となったUntitledも展示されている。バスキア展は、アートに精通していないとちょっと難しく、深く読み解くところまでは達するのは難しい。アート初心者は、是非少し予習をしてから行くことをおすすめしたい。そして、可能なら何回も見るのがいいのかもしれない。バスキア展、残り4日。是非足を運んでみてください。




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