建築設計に造形力は必要ですか_

建築設計に造形力は必要ですか?

1. 造形力=センス?

 まず最初に、そもそも造形力とは何なのか、ということから考えていきたいと思います。プロとして造形する人を育成する美大では、最も重要な基礎としてデッサンを位置付けています。よく言われていることですが、デッサンは単に絵を上手く描くための訓練ではなく、観察力を磨くためのものです。単に観察力を磨くだけなら、観察だけを繰り返してもなんとかなりそうですが、観察と描画を同時に行うことに大きな意味があります。
 人が対象を見て描画する時、目で見たものを一旦脳で理解してから描き出します。つまり、目から得た情報のうち、脳で理解したことしかアウトプットできないのです。デッサンでは、脳で理解した認識を画としてアウトプットし、それを再度目で見て評価することで、認識の歪みを把握し修正する、という作業を繰り返すことになります。そのサイクルを何度も繰り返すことによって、元々持っていた認識の方法とは別の視点を獲得していくことができ、観察力がついていきます。

図:デッサンにおける認識と評価のサイクル

 造形とは、作者の視点を表現するものであり、視点とは、対象を観察する時の認識の方法です。そして、デッサンでの観察と評価のサイクルに見られるように、オリジナリティがあったり、今までの認識を越えていくような視点は、多くが観察から生まれてくるものです。ですから、昔から美術・造形の基礎として、デッサンは多くの信頼を得ているのです。そして、造形力の大きな部分は観察力に裏打ちされたものであると言えます。
 造形力≒観察力ということは、造形力は観察力の訓練によって獲得できるものだ、ということです。つまり造形力は生まれ持った感性によるものではなく、観察力を鍛えることによって後天的に向上させることが可能です。そして、インターネットで数えきれない画像や映像が見れる現在、観察力は、必ずしもデッサンによって訓練する必要はありません。そのことについてはまた別の機会に述べたいと思います。

2. 建築設計に造形力は必要ですか?
2-1形から考える
 かつて、建築設計では、まず与条件を元に図面を作成し、図面に対応した立体(模型)を作って確認する、というようなプロセスが主流でしたが、2000年代にかけて、図面よりも模型を中心に検討する方法が現れ、主に妹島和世、西沢立衛らによって実践され、その可能性が示されました。彼らの設計プロセスは、従来のように、ある程度検討が終わった図面を立体的に確認するためだけに模型を作るのではなく、検討の段階で複数の模型を作り、模型で比較検討して決めていくという方法です。
 建築家で建築学者の門脇耕三は、それを『図面優位型』から『模型優位型』へのスタディ方法の移行として説明しています。氏はこのようなスタディ方法を『アブダクティブなスタディ』と分析し、さらに長坂常(スキーマ建築計画)のリノベーション作品を例とし、『「模型」に代わる他者として、「既存の建築」を置いたアブダクティヴな』スタディの可能性を示唆していますが、模型スタディの画像もありますので、詳しくは記事(註1)を読んで頂ければと思います。

2-2やれることから考える
 さて、造形の話に戻りますが、先の模型を中心としたスタディ方法は、形から考えるスタディ方法であると言い換えることができます。従来のスタディ方法は、以下の図で示されるように、深層である時代背景や、機能・コスト・法規などの与条件を元に、コンセプトを決め、それに対応した表層の造形を施す、というピラミッド型のプロセスでした。

図:ピラミッド型の造形プロセス

 このようなプロセスの良い所は、ベルトコンベアー式に分業することが容易である、ということです。例えば、与条件を元に、ディベロッパーがコンセプトを決め、そのコンセプトを元にして、グラフィックや空間など、様々な表層のデザインをそれぞれの専門デザイナーがデザインする、というようなことがしやすい方式です。しかし、そういった方法でデザインした結果、コンセプトが隅々まで行き渡った総合的なデザインが生まれているでしょうか?ベルトコンベアーが進むに従って、コンセプトは希薄になり、こじつけのような苦しい状況に陥っているのをよく見かけます。これは、ベルトコンベアーの端と端でコミュニケーションが上手くいかなかったからでしょうか?
 このような問題が起こるのは、そもそも掲げられたコンセプトが、効果的に形に落とし込めないものだったからではないでしょうか。空間やグラフィックでできることは、言葉にすると陳腐なものになってしまうこともあります。崇高な理念や壮大なコンセプトが先行することで、形の可能性を狭めてしまっているのではないでしょうか。
 形から考えていくことは、「やりたいこと」から抽象的に検討するのではなく、形の中から「やれること」を見付けていく作業です。まず、造形に落とし込み、それを観察し、そこで何が起こるかを読み取っていくことで、言葉では見つけられない、なおかつ実現可能な形を生み出すことができるのではないでしょうか。
 模型以外にも、隈研吾のように素材を軸として考え、その組成や支持のディティールから空間を考えたり、アトリエ・ワン他による、『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』(註2)についても、形から考えていく方法だと考えられます。『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』は、実存する都市の極小建築物を収集し、ガイドブックとしてまとめた面白い本ですが、そこでは、極小建築物を説明するために、雨樋に至るまでアクソメ図に描き起こしています。雨樋は、コンセプトを通して建築を見た時には、あまり重要でない付属物として、無いものとして扱われることの多い部材ですが、ここでは、そこに雨樋があることから考えよう、というアプローチが取られているように思われます。近年では、コンピュータ-による設計プロセスのデジタライゼーションも発達し、このような、形から考えるプロセスをよりローコストで迅速に行うことができる環境が整いつつあります。

2-3本ではなく地図のように
 かと言って、造形だけで全てを越えていけると言っている訳ではありません。言葉を放棄してしまっては、チーム内で共有できなかったり、抽象的な思考から新しい形が生まれることもあります。ここで述べたいのは、どちらか一方向ではなく、形と言葉がそれぞれ評価し合う、デッサンのような円環型のプロセスが重要なのではないか、ということです。

図:円環型の造形プロセス

 机に向かってコンセプトをひねり出すだけでは行き詰ることが明白でしょう。ネットで画像検索をしてみたり、敷地を歩いてみたり、好きな形について考えてみたり、手元の文房具を見立ててみたり、形から考えてみることも必要です。起承転結の型にはめるのではなく、縦横無尽に地図を眺めるように発見することを試みて欲しいと思います。そして、それをより深く行うためには観察力≒造形力を磨くことが必要です。

3. アートじゃないんだから?
 デザインとアート・造形は違う、という意見もあるでしょう。建築はアートではないのだから、順序立てて論理的に組み立てていくべきだ、という声も聞こえてきそうです。建築とアートで違う点は、建築には機能などの役割があるということです。しかし、機能に特化して作られた建築や都市計画が、長年使われていく中で、時代の変化に対応できず種々の問題が発生した、というのがポストモダンの問題意識です。
 モダン以降の建築家達は、機能と建築の間に余白を作るべく、機能以外の、素材や地域の特性、環境技術など、様々な要素を加えていった、というのが近代から現代にかけての建築における試行の流れと言えるかもしれません。その余白の一つとして“形”があります。例えば、有名な安藤忠雄設計の住吉の長屋では、中庭を挟んだ箱、という形に対して、住み手がそこに様々な価値を見出して住んでいくことによって、“形”が余白として建築に加えられています。(註3)
 また、先述したように、形で建築を表現することは、言葉で抽象的に建築を考えるのとは違い、生み出された段階で、できること・できないことがはっきりと示されてしまうシビアな表現です。同時に、言葉が通じなくても瞬時に共有できる、理解しやすい媒体でもあります。建築家の藤村龍至は、公共的な建物について利用者と話し合う場において、そういった形のもつ特性を活かしたタウンミーティングを行っています。付箋などによる言葉のワークショップだと、言葉自体の定義が曖昧なまま進んでしまったり、議論を筋立てる剛腕なオペレーターが必要になってきますが、形はそういった曖昧な状況を少なくし、かつ個々人のもつイメージを統合してビジュアル化し、多くの人に共有する力を持っています。

 近年では、建築家の説明責任も厳しく問われるようになり、あらゆるものについて社会的正当性が求められる時代です。そんな時に、形から考える、というのはやや的外れでおっとりしているように聞こえるかもしれません。しかし、形には、言葉にはない多くの機能があります。その機能をよく知り、過信せずに使いこなし、形からも考えることができれば、より多くの可能性を提案できるのではないか、と思うのです。


註1:門脇耕三(2012)2000年以降のスタディ、または設計における他社性の発露の行方10+1website 201204
http://10plus1.jp/monthly/2012/04/2000.php
註2:東京工業大学建築学科塚本研究室、アトリエ・ワン(2001)『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』ワールドフォトプレス
註3:中谷礼仁(2017)『実況・近代建築史講義』LIXIL出版 において、安藤忠雄は形式主義の例として取り上げられている。


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