見出し画像

30年後にも「おせち」はあるのか

本年もあけましておめでとう。正月真っ盛りだ。

正月は江戸中期の改暦にて、それまでは立春のくくりの中にあったが、今の正月に連なる概念は生まれたという。

年末から年始への年が変わる概念はそれ以前からあったのではあるが。節の変わり目、ゆえに御節(おせち)なのだ。

怪異の目線からモトタキがそれっぽく語る。

ハレとケと正月

たかが「おせち」と思われがちだが、「おせち」が担う文化的役割には、年の変わり目を実感させる役目がある。

保存食であるおせちがあれば、人々は台所支度からも解き放たれる。年の初めは一年もある長いケを歩み続けるためのハレである。

ケは日常であり、ハレとは非日常である。ケが続けば疲れてしまうので、ハレの日は必要とされる。しかし、ハレしかなければ生活ができなくなる。なので、ケに戻っていくのだ。

ゆえに誰も彼もが日常から解き放たれなければならない。年初めは、それほどの大ハレであるべきだ。

神の概念を持ち込めば、ハレは神々と遊ぶ日々でもある。この非日常があるから、辛く面倒な日常を頑張れる。そのための英気を養えるのである。

竈の神や火の神もハレを楽しまねばならない。日常的に火を扱わない日もなければ、台所を使わない日はないだろう。食わねば死ぬからだ。それを助けてくれるのが、これらの神なのだ。

今回は深く述べないが、火の神とイザナミやイザナギとの関係を考えてみるのもよい。火の神は強力な神である。火を使う竈の神もまたそうだろう。

おせちが無くなればハレのないケが続く可能性

完全管理社会というか、一種のディストピアにも感じられるが、ハレのないケは恐ろしい。刑務所ですらハレはある。

ハレのないケは、スタンプを押し続けるような人生である。掠れて、削れて、押せなくなるまで必死に一日の生活を描いたスタンプを押すしかない。

おせちとは、本来は家々や地元の特徴があるもの。2019年の段階で、すでに実家で食べるおせちとツイッターランドでフォロワーが食べるおせちが同じものの時代が来ているのだ。

はっきり言えば、これでは「あんまりする意味もないから」と惰性で続いていたが、LINEにその役割を奪われつつあるハガキを使った年賀挨拶文化のように廃れていくのは目に見えている。

形骸化したものから死んでいくのだ。文化とはそういう性質がある。年賀状はデジタルとなり、おせちは通販になり、これらが失われていけば、自然と正月ムードは希薄となっていく。

待ち受けるのは、正月という大きなハレを失って、連綿と続くばかりのケである。年だけが刻まれて増えていくとして、それでは本当に大事な非日常が展開できやしない。

人々は今以上に日常に疲弊してしまうのではないか。

罪とケガレと烏滸の者

ハレによる浄化がなければ、ケガレが生じる。ケガレは罪によっても生じる。つまり、ケガレは罪を呼ぶ。

さあ、オカルトじみてきた。

罪の中には生膚断(いきはだたち)や死膚断(しにはだたち)もある。人を傷つけること、人を殺すこと。これらも呼んでしまう。本来ならば、ハレはこれらを退けるはずであるのに。

怒り、悲しみ、憐れみ、そうした負の感情が蓄積すればするほど、よくない。ケガレはより大きくなっていく。お笑いの祭典ですら、怒りが怒りを呼ぶ状況は好ましくない。

烏滸の者なる言葉がある。神を笑わせる者の意味だ。本来は、お笑いは神への捧げ物だった。

今は愚か者を笑う文化ですらなく、愚か者をサンドバッグにする文化だ。これは進歩なのか。笑いはハレであるが、暴力はケガレである。

新元号でおせちは生まれ変わるのか

平成は30年でおせちは緩やかに終わっていった。新元号での30年で、どう変化するのか。このまま消えいくのか。はたまた、新たなるおせちが生まれるのか。

観測していきたい。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?