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映画『来る』は「怪異の民俗学」を知る人ほどハマる

ツイッターランドで「心霊版シン・ゴジラ」と囁かれる中島哲也監督による映画『来る』。怪異をこよなく愛するモトタキが映画初見感想をネタバレ上等で書き殴る。なお原作未読。

『来る』はよくある日常が壊れる物語

地方出身者の田原秀樹と妻・香奈の結婚目前にした法事、そして結婚式、そこからはじまる幸せそうな結婚生活がじっくりと描かれる。

娘・知紗の誕生を機にイクメンパパを目指す秀樹。そんなありふれた日常が徐々に壊れていく。主な原因は、怪異による超常現象。人が垣間見せる闇も見どころだ。

心霊版シン・ゴジラと期待すると見逃す「日常の憎悪」

『来る』は『シン・ゴジラ』を期待していけばズレがある。それはこの映画が日常から始まるから。『シン・ゴジラ』の日常はあっという間に瓦解する。だが『来る』の日常はたっぷりとある。

民俗学でいうケとハレの配分がうまく活用されている。前半部分は退屈だったと言われがちだが、あそこはそれほどまでに日常。だがよくよく考えれば、そのつまらない人間ドラマにもまた怖さがたっぷりなのだ。

地方の野暮ったさのリアルに吐き気

秀樹の祖父の法事で戻った田舎の人々は、その野暮ったさ、セクハラは当たり前の神経がすり減りそうな雰囲気のリアルさにストレスを感じる人もいるかも。

女は家事をして当然。陰口ばかりが囁かれ、暴力によって鬱憤を解消しようとする人もいる。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」なんて言葉が似合いそう。秀樹の親族の集まりだけでも殺し合いが起きそうな雰囲気がある。

ただこれは観る人によっては当たり前の憎悪。日常の中の憎悪である。

真面目系クズな秀樹と不幸体質の香奈

そうした日常の憎悪は、結婚生活にも現れる。娘の誕生によってイクメンパパを目指す。だが努力の方向性がおかしい。実際には育児に関わらず、偽りの記録をブログに書き綴る。

これは幼少期からの彼のクセである。カッコつけたがりだが努力はしない。ウソを積み重ねる。それっぽさで自分を演出するのが得意。周りにはその在り方に辟易としている人も多いのは結婚式披露宴の陰口で語られた。

香奈は親に虐待されて育った。そうして生まれた陰気がちな性格に加えて、借金を肩代わりされたことが引け目となり、押しが弱い。もしも、彼女が言いたいことをきちんと言える性格ならば、結婚生活はもっとよいものになっただろう。

自己愛の化身である秀樹。言いたいことを言えずに鬱々とする香奈。二人は子供を愛していたが、愛しきれてはいなかった。両親からほんとうの意味で向き合われなかった知紗は孤独の中に育つ。自虐癖まで身につけるほどに歪む。

民俗学者・津田の死に感じる虚無味

秀樹の親友である民俗学者の津田。その実際は、秀樹にとってドクズな兄貴分。その秀樹を陥れて愉悦を感じるのが趣味のど畜生。ゆえに秀樹は香奈を奪う。

民俗学で識り得た呪禁道を試して、幸せな家庭を破壊しようとするのもわかる。だが、それによって呼ばれたモノによって取り憑かれ殺される様はなんとも虚しい。

知紗がモノを使役するに至ったからこその死なのか。それとも、呪いに蝕まれた一家との関わりによる死なのか。そのあたりもいろんな解釈が出来ておもしろい。

琴子と真琴の姉妹が尊い

そもそもに琴子は他の追随を許さないほどの霊力の持ち主であり、真琴はそれに憧れて身を削って霊力を身に付けたのだが、そのことが琴子にとっての弱みなのが尊い。

琴子は真琴を妹として愛している。病院のくだりで、真琴が異界に連れ去られた際、琴子が酒を飲んで落胆する姿からも伝わる。真琴の弱さを知るからこそ、怪異から遠ざけたいと願うのが見えてくる。

冷淡に見え、そして「馬鹿な妹」と称するのは、そうした心の声の裏返し。だが霊力が強いとは日常から離れて非日常な存在となること。一般人としての当たり前の応対が出来ぬからこそ、琴子は強いのもあるのか。

そうしたすれ違いが尊い。

ガゴゼとぼぎわん

原作では「ぼぎわん」なるオリジナルの怪物だそう。だが映画では怪異であり、おそらくは零落した山ノ神だ。元興寺の鬼というべきか、ガゴゼの名が囁かれていたが、ガゴゼの鬼に子攫いの伝承はない。ガゴゼとは化物の総称でもある。

映画のストーリーのみで見るに、秀樹の故郷の山ノ神。かつては強い力を持って信仰もあったのだろう。だが、今はその宗教は失われ、力の持つ怪異のみが山に住む。

子を脅す為の怪異としてだけ伝えられ、秀樹の幼馴染の少女が攫われる。その姿は今生には存在せず。のちに、それと言葉を交わしたことで、呪いをうけて死に至る後輩の高梨が、その姿も形も何もかもを記憶できないところがとても良い。

それから先、声であっても姿であっても、それはそれを見る人の知る姿や声を借りる。この世ならざるものだからこそ、なのだと解釈する。姿が見えてしまったら、それはこの世のモノである。

怪異としての虫

虫は田畑を食い荒らす。今は虫の生態が理解されているが、虫は突如そこに現れるものだと思われていた。此の世あらざるものの助けをする怪異としての虫は突如現れる演出は、それ通りだった。

この世ならざるものの攻撃手段

この世ならざるからこそ、実体としての攻撃は仕掛けられない。悪霊の攻撃手段は「幻聴や幻視のような幻覚の類を使った翻弄」「究極的にまで運気を下げる」ことによって「生者を死に近づける」であるべきだ。”アナザーなら死んでた”なんて言葉を生み出すアレこそ、怪異の脅威だと感じる。

そういう意味では、ユタたちの死に様も納得である。あれでいい。

ならば、噛み跡や田原夫妻の死をどう説明するのかとなるかもしれない。噛み跡は聖痕現象やノーシーボ効果でよいのでは。いわゆる、思い込みによって生体反応がでるというもの。

実証できるのかは別として、そうしたことが罷り通るのがホラーやオカルトの世界なので、全然OK。

秀樹の死の場合は、異界化した部屋だからこそアレが権能をふるったと見るべきか。霊能者セツ子の腕が吹き飛ぶ聖痕現象が起きるのなら、あれぐらいはあると見るべきかも。

香奈は雛見沢症候群の最終症状のように喉を掻き毟ったのか。トイレであるのもよくない。

「声に応える」と「魂呼い」と「縁結び」

携帯が鳴って、声をかけてくるアレに応えると、アレがやって来る。それは異界と此の世を繋いでしまうからだ。魂呼いなる、死者蘇生のために大声で名を呼ぶ習俗も存在する。

声は届くのだ。此の世から異界に、そして異界から此の世に。

此の世ならざるものは、繋ぐために反応を求める。だが異界のモノゆえに此の世にあるものを借りる。言葉を借りる。その時点では、まだ此の世のもの。だから、今までにあるセリフが使われる。後の琴子の声を使った時もセリフがそのままだったのもそうだろう。

縁結びが成れば、あとは行くだけ。

「祓いの儀式」のオカルトごった煮

そのモノを呼び出すための儀式。シン・ゴジラ的と呼ばれる要素がここにある。

神道、巫女舞、修験道、仏教、ムーダンどころか、大槻教授を思わせる科学装置を扱う集団までいた。もう大爆笑。その異様さもそうだけど嬉しい。そのひとつひとつを監修や指導してる本気度が嬉しい。

「ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ」と琴子がひふみ祝詞を唱えるのもいい。祝詞が布都御魂に感じた。異界入りした真琴と知紗を呼び戻すため、なのだろうか。

なお、霊能力者に聞いた話では、どの宗教の言葉であっても、異界に届く時は異界の言葉になるという。より翻訳しやすい此の世の言葉の文法なのであり、ゆえに霊の生前の宗派がキリスト教であっても、神道の言葉が通じることはあるという。

ゆえにごった煮でもよいのかもしれない。

異界と境

儀式では鶏鳴三声がなされる。これは朝を呼ぶ。それにより空模様は夜と昼を繰り返し、最後は逢魔が時となる。夕方の薄暗くなった時間帯。そもそも、異界と此の世界が繋がるのは境である。

国境、村境のような境であり、門も境であり、昼と夜を繋ぐ時も境だ。その境が大きいもの同士の境であるほど、異界は近づく。大晦日のような年と年の境は強烈だ。

余談だが2018年は平成の終わりであり、年号と年号の境にいる。ゆえに平成のものは平成に終わっていく。平成が置いていけと力強く引くのだ。

異界とトイレ

そしてトイレも本来は境であったという。トイレは厠であり川屋だ。川の上にあったわけだ。では川とは何か。山と海を繋ぐものだ。山には山上異界が存在し、海には海上異界が存在すると思われていた。つまり、それを繋ぐ川は異界である。

異界の上にて、無防備な姿を晒す川屋を起源とするからこそ、トイレは未だに異界の入口となる。

此の世から離れれば離れるほど異界に近付く。ルールが違う。ゆえに子を孕めぬはずの真琴が子を孕むのは異界入りした証である。

水と怪異

異界といえば、水面は揺らぐゆえに異界と繋ぎやすい。鏡はむしろ正体を写すので、むしろ魔を封じるものである。そもそも、三種の神器は、刀と鏡と勾玉だ。それに由来するからこそ魔を退ける。刃物もまたである。

怪異の祓い

怪異が神である以上、邪神であっても礼を尽くす。霊能力者から聞いたことのある言葉であり、今回の映画でも使われた言葉だった。そもそも、霊を祓うのはビームを打つわけではない。

基本は霊能者セツ子のように、この世にとどまる霊の話を聞くのだという。そして死んだ事実を突きつけて、霊を神上がりさせる。霊に甘えを見せれば取り憑かれる。強くあらねばならない。

琴子のいう強さとはそこにあり、弱さもそこにある。真琴の有り様を見たからこそ、琴子に弱さが生まれ、ゆえに怪異に上回られて虫を吐いたように見えた。

「知紗とオムライスの国」と民話「蛇に祟られた村長」

知紗のオムライスの国のくだりを笑う人も多い。だがアレはギャグなのだろうか。知紗にとっては、あれでいいのだ。知紗は、父の死すらわからぬ幼子である。

そして七五三を済ませるまでは、子供は神の子なのだ。ゆえに此の世ならざるものは、知紗自体に危害は加えられていない。知紗を異界に連れて行こうとはするも、それは己の世界に連れて行くだけである。何も悪いことはしていない。

知紗の笑顔を見るたびに、ある民話を思い出す。

「蛇に祟られた村長」の民話がある。村の子供たちが蛇を八つ裂きにして遊んでいるのを見た村長が、蛇の祟を恐れて子供たちを叱る。その夜、村長が蛇に祟られて死んでしまう。

知紗も恐れていない。だからオムライスの国なんて長閑な夢を見るのでは。

※ここから下は余談
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