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テレビが失った音

ときどき、駆け出しADの立場から見たテレビ番組制作の裏側をつづっていく。

初めてディレクターとテレビ局のプロデューサーが衝突するのを見た。衝突といっても怒鳴り合いのいがみ合いではない。演出意図の違いからくるクリエイティブなやり取りだ。

それは番組で当たり前のように出ている字幕について。大ベテランのディレクターの話を聞くと、テレビは字幕と引き換えに良質な音を失ったらしい。

プロデューサーとどっちが正しいというつもりはない。答えがないからこそ、考える必要がある。きのうに引き続き、音の話。

プロデューサーの主張

「インタビューフォローを入れてください」

これが発端だった。制作していたテレビドキュメンタリーの編集中、プロデューサーから連絡がきた。インタビューフォローとは、取材対象者の話を字幕で出すこと。

プロデューサーの理屈では、テレビは雑音の中で見るもの。たとえば子どもの声や救急車のサイレン、その他もろもろの生活音……。家でテレビを見ていると、出演者の言葉が聞こえにくい、と。

ただ、ディレクターは反対した。

ディレクターの話

「今は字幕を入れることが当たり前になって、それに疑問すら抱かない」。本来字幕とは、言葉を強調するためのもの。なんでもかんでも字幕を入れる行為は、ディレクターからいわせるとただの思考停止なのだ。

そのディレクター曰く、字幕はバラエティの“笑わかし”から来ているらしい。それからニュースで使われるようになって、いつの間にかドキュメンタリーにも当たり前に反映されるようになったという。

これで何が起こったかというと、音がないがしろにされ始めた。「聞こえなければ字幕を出せばいいじゃん」となってしまった。そのせいか、ここ20年でどんどん録音マンの技術が落ちたそうだ。また、「こっちは聴こえるように録ってんだ」という優れた録音マンからすれば、自分たちの技術が理解されない時代だともいえる。

DとPの狭間で浮かんだ疑問

ディレクター(D)とプロデューサー(P)のどちらのいうことも分かる。繰り返しになるが、正しい方を決めたいわけではない。

録音マンの話をしておいて何だが、一つ浮かんだのは耳が聞こえない人のこと。「視聴者=健常者」という前提で話が進むことに違和感があった。今は字幕放送もあるけれど、かといって聞こえない人をないがしろにしたくない。それに、きちんと整えられた番組内の字幕に対し、字幕放送の字は美しくない。そうやって見られることこそ、つくり手として不本意ではないか。

以前、耳の不自由な方に取材をしたことがある。子どものころはテレビにあまり字幕がなく、健常者の家族が笑っても自分だけ置き去りにされたそうだ。「親がレンタルしてくる洋画の字幕版を見るのが楽しみだった」と話してくださった。DとPの話を聞きながら、その人の顔が浮かんだ。

詰まるところ、映像だけで楽しめたら究極だ。これが難しいのだけど……。映像で分かるように努力して、文字は必要最低限にする。これが字幕と音の最大公約数ではないだろうか。


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もこだい

何かをする理由は「好きだから」で充分/エッセイと詩と短歌

映像と言葉

TV制作、ライター、シナリオの話。

コメント1件

「テレビは雑音の中で見るもの」はその通りで、(時間によりますが)朝は水仕事をしながら観るので、字幕は助かります。「テレビは字幕と引き換えに良質な音を失った」は、音を含めた制作物の経験がないので何も言えません。
ただ、書き手として、字幕について(1)実際の「音」の意図を歪曲するのはやめてほしい(2)変換ミスの誤字を見るたび注意が足りないと思う(3)書き言葉なのだから助詞は間違えないでほしい。  は、常に感じています。
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