言っても良いこと悪いこと〜銃撃事件から思うこと

昨日、悲惨な大事件が起きた。良いも悪いも影響力も知名度もある人間が公衆の場で、という衝撃的な事件。

当然のことながら、事件の解明にはまだ時間が必要(どれくらい必要かわからない)であり、Twitterでは様々な憶測や批難、明らかに常識外れな発言も飛び交っている。また、テレビ報道のあり方や酷い記者会見について色々と思うところがあった。

結論から言うと「わからない」。何もしないのが1番なのか?声を挙げることも不必要なことなのか?なんか色んなことがわからなくなったので、書きながら自身の考えをまとめてみようと思って何年ぶりかにnoteを開いてみた。⚠4000文字以上あります。

① 批難はいけないのか?


「SPは何やってたんだ!?」こういう声に対して、「批難はやめよう」「SPにも人生や家族がある」という擁護の声。
この辺りはどちらも正しく思える。

ただ、擁護の理由が「非日常だから仕方がない」「SPも人なんだから銃声にビビるのは当たり前」「批難してる人は立ち向かえるのか!?」「日本だからしかたない」「日本のSPは実務経験なさすぎ」こういうのは違うと思う。要人警護は非日常の時にこそ対応する仕事であり、その職務人生の中で一度も派手な活躍をすることがない人もいるのではないか。100回や1000回のうちの1つではない。おそらく1回あるかないかのうちの1回だからミスや失念が許されない仕事ではないのか(当然だが、日常での警戒も重要な仕事ではある)。日本だから許されるものでもないし、銃規制されている日本だから刃物を前提にしている、というのもありえないと思う。日本に銃がないならわかる。あるところにはあるのは誰もがわかってるのではないか。それを想定していないならなおさら問題だと思う。実務経験なさすぎ、というのもじゃあSPは戦地で訓練せよ!という意味なのか?わからない。同じことができるのか?という意見に対しては、プロと素人を比べること自体おかしい話なので論外。逆にできるレベルなら専門職として成立しない。自分ができないことは言うべきではない、というのはあくまでも近いレベルの話であると思う。
「SPが体を張って守るべき」これもそう思う。これにも「SPなら死んでもいいのか!?」という反論があるが、推測ではあるものの、SPは防弾チョッキなどの装備をしているはず。撃たれた時に助かる可能性が高いのは装備をしている方なのは明白。当然顔や首を撃たれたらどうしようもないのはわかる。あくまでも最悪の場合の可能性の話であり、代わりに死ぬべきという話ではない。逃げてもいいなら装備も必要ないし、そもそも専門職として配備する必要はないと思う。
少しずれるが「SPの数が少なすぎるのでは?」これはわかる。今回はSPが1人しかいなかったという情報も見た。わかるけど、基本的に政治家や公務員というのはお金の損得勘定ができないと思ってる。何かを減らして何かに充てる、ではなく、必要だから増税!の流れになるのではないかという懸念がある(SP費用だけを考えれば負担は微々たるものに思えるがほかの事案も含め)。代わりに議員や公務員削減など期待できない。そういう意味で、国が用意するのではなく、使途不明(に思える)な政党助成金などで自衛すべきではないかと思う。それでも税金なんだから腹は痛まないはず。

②ミス、結果を責めるという行為

そもそも現代では怒ること自体が賛否両論、というよりも怒ること自体がいけない、という方が主流になりつつある。
仕事や身近な相手であれば、相手に理解してもらう為に怒るという表現を避けるというのはとても大切なことだと思う。
では、今回のように届かない相手に対しての怒りはどうすればいいのか?
今回の事件、警備警戒警護に問題があったと思う。かけがえのない人の命(偉人、という意味ではない)が失われたことに対して、仕方がなかったと諦めるのではなく、問題を見つけ今後に活かすべきなのは当然であると思う。
性善説、性悪説に分かれるのかもしれないが、悪い結果が起こしてしまったとき、数種類の人間がいると思う。他にもあると思うがとりあえず思いつくのを挙げると

A 深く自省する人
こういうタイプはもちろん何も言わなくていいと思う。
B 指摘されて事の重大さに気づく人
周りの声を聞いて初めてわかることもある。救いようがある。
C 完全他責思考の人
自己擁護のみにひたすら奔走する。あるいは自分以外の責任を探す。事実を認めたくないが為に嘘をつく、あるいは虚偽を事実として脳内変換していく、という人もいるだろう。客観性の高い事実を認められない池袋の自動車死亡事故の上級国民(←変換予測に出てきたw)もこのタイプではないか。
D 保身に走る人
悪いと思ってなくても体裁を気にして反省してるように取り繕う。自身もそうだが、小さい話であれば、あるいは自分が謝って済むのであればそれで構わないという人もこれにあたるかもしれない。ただこれの真偽は本人にしかわからない。

言うまでもなく、人類(日本人)全体がAタイプであると思えない。1件だけ典型的な具体例を挙げたが、他にもあると思う。組織の上長にあたる人間が部下だけの責任にするのもCだと思う。近い話であれば、雲隠れしたパパ活議員。自民党総裁、岸田派の筆頭として岸田「総裁」が代わりに謝罪するのは当たり前のような気がする(してたらすいません)。
仮にこの4種類だけとするならば、批難の声は必要な気がする。CやDタイプの人がBや次回の重大事案でAに変わる可能性があるのではないか。
大衆の自分がやらなくても身近な周りが言えばいい、確かにそうかもしれない。でも、こちらからはわからない。周りに誰も指摘してくれる人がいないかもしれないし、身近な人間の言葉よりも圧倒的多数の声の方が重く受け止める人かもしれない。無免許で事故を起こしてふてぶてしい態度で反省の様子が伺えなかった木下都議も多くの批難の声がなければ、議員を続けていた気もする(ちなみに逃げ続けてゲットした議員報酬は本当に社会貢献に使われたのだろうか?)。
相手がどんな人間(組織)であろうが自分には関係ないだろう、これもそうかもしれない。ただ、今回の件では海外にも少なからず広まるであろうし、外交や観光業に影響があるかもしれない。そういう意味では全く関係ないとは言い切れないのではないか。ドル円も速報と共に急激に変わったという情報もあるし、株価の混乱を防ぐために死亡発表をあえて17時を越えさせたという憶測もある。これはさすがに夫人の到着を待ったというのが事実であろうと思うが、陰謀論者からすれば夫人の到着時間すらも調整したと言い切るだろう。

③ 批難の弊害と誹謗中傷

ではやはり批難は必要なのか?
今回も危惧されているのが「批難された人や家族が自責の念で…というのは絶対ダメ」。
これも間違いない事実である。悲しみの連鎖は絶対に防がなければいけない。

必要性はあるが危険性もある。本人や社会の更生を期するなら必要かもしれないが、さらなる命が失われるかもしれない。どちらが重いかと言われると、やはりかけがえのないのは命。ということは、沈黙が正しいのであろうか?

無限ループにはまるので少しだけ論点をずらしてみる。

正当な批難、批判も許されないのか?

つい先日、誹謗中傷厳罰化が施行された。
わかりやすいのはわかる。
今回であれば「SPが死ねよ!」「奈良県警本部長は失態を命で償え!」こういう具体的なのはアウトでしょう。
お笑い芸人に「面白くない」というのはどうなのだろう?俳優に「演技下手」は?容姿を売りにしてる(ように見える)アイドルに「ブサイク」は?
ピザを頼んで箱だけ届いたら怒ると思う。怒らないにしても改善要望、いわゆるクレームを入れるだろう。ピザ屋さんが仕事をしてないから。契約不履行とでも言うべきか。
お笑い芸人はどうか?テレビであれば直接契約してないので見る見ないは自由。ナイナイの岡村が嫌なら見るなという発言で叩かれたが、イマイチピンとこなかった。
「お笑い爆笑ライブ!」という有料劇場の場合はどうなのか?全然笑えなかったら文句言ってもいいのかな?野次もダメ?
目に見えるモノがないと難しいのかな?感性の部分は認められないのだろうか。じゃあ会場の誰一人クスリともしてなければ認められる?
「担当した美容師さんの態度が悪かった」と口コミにレビューするのはどうなのだろう。初めて入ったごはん屋さんに「まずかった」は?

批難と誹謗中傷のラインがわからない。
基本的にはわからなければ聞けばいいのだが、そこまで知りたいわけでもない。

最後に。
加害者への批難は許されるのか?
すこしずつ犯人の供述が報道されているが、これも正直、本当かどうかは本人の胸にしかわからないと思う。もしかして、家族を人質にとられてて仕方なくやってしまった、というのが事実かもしれない。そんな極端な話は想像し難く、決して擁護するわけではないが、犯罪者の多くは選択ミスだと思う。誰かに相談していたら回避できたかもしれない。誰かに事前に怒られていたらやらなかったかもしれない。犯罪を許さない空気が充満する環境にいたら選択しなかったかもしれない。
ただ、やってしまったことは仕方がない。だから、犯罪者にはその選択ミスに対して刑罰が科される。
責められるのは加害者のみでいい!
本人が深く反省し、罪を償うのなら、批難は必要ないのではないかとも少しだけ思う。なかなか心情的に難しいが、再犯を防ぐという観点からすると、ここの理解をもう少しでも拡げないといけないのかもしれない。

④ 結論
わからない。

何が正解かわからない。

明らかな暴言はしない。ここは確実。

軽々しく言うのは良くないと思う。

それはダメでしょ!というのを我慢するのも違うと思う。

あとは、不確かな情報や推測憶測で判断するのも良くないと思う。

本当の事実ってたぶんわからないものだと思う。先述の通り、犯人の供述が本心かどうかも本人にしかわからない。物的証拠、状況証拠というのはある程度事実として認めざるを得ないと思うが。

陰謀論も全てが全てデタラメとは思わない。もしかして1つくらいあたっている事実があるかもしれない。

結局、いろんな声があってもいいのではないか、と思う。

批難する人も擁護する人も「言ってはいけない」と規制されるよりも、自由な発言ができる方がいいのかもしれない。

自分が「こいつは絶対頭おかしい」と思うなら関わらない、積極的に避ける。

異なる意見に対して少しでも許容できる心の余裕をもつ。

相手の想いを認めてあげようと努力する。

正解はわからないけど、そういうことを大切にしていくのが大事なのかもしれない。










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