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子供を社会で育てると「地頭がよくなる」と思う理由

通勤電車で佐渡島さんの記事を読んで、朝からうーむ、と考え込んでしまった。
タイトルは「子供は、誰のものか?」
子供って誰のものなんだろう。
そもそも誰かの所有物なのだろうか。

子供は誰のものか?という問いとともに、その状況を考えてみると、僕のモヤモヤがスッキリしてくる。世話の中心は親でも、子供は社会全体で育てるものではないか、という考え方を僕は持っている

この記事が出る前、佐渡島さんが「子供は誰のものか」に関するツイートをしていた。
そのときの私の考えは「子供に関わるみんなのもの」。
佐渡島さんの考えと少し似ている。

でもふと不安になった。
「子供は社会のもの」だから「社会で育てる」が成立したとき、子供は幸せなのだろうか。
それは、子育てにおける一貫性の重要性に関する記事を思い出したから。

判断能力のない子供がさまざまな大人からさまざまな「正解」を受け取ると、混乱してしまうのではないか、と思った。

しかし、考えているうちにその不安は消えていく。

それは「正解」を与えられないことで、「自分で考える力」=「地頭のよさ」が身につくのではないか、と思ったから。

細谷さんの「具体と抽象」でも地頭力について述べられているけれど、要は「具体的な事象をもとに抽象化し、自分で考えて答えを出す力」だ。

大人(親)によって「正解」だけを与えられると、子供はそれを疑うことなく受け取る。
「それが正解か否か」を考える余白は残されていない。

しかし、社会で育てる場合、複数の大人から「正解」が与えられるだろう。

例えば、子供が「勉強したくない」と言ったとする。
ある大人は「大人になってから後悔するから勉強しなさい」と言うし、
ある大人は「勉強なんて意味ないから止めていいよ」と言うし、
ある大人は「どうして勉強したくないのか考えてみよう」と言う。

子供は「誰の言うことに従ったらいいのか」を自分で考えるに違いない。
考えた結果、「勉強しない」「勉強する」を、自分で判断する。
子供のころから、自分で考えて行動するクセ(習慣)がつくと、学生、社会人になっても、必ず強みになる。

子供は社会のもの、という考えは、親だけじゃなく、子供にとってもいいことなんじゃないかなと思った。

「子供は、誰のものか?」の答えはすっきりした。

さて次は、「私は、誰のものか?」を考えてみたい。

#コラム #エッセイ #感想

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