つづく

全ての物事がそうであるように、始まりは突然だった。もしかすると、ずっと前から予兆は始まっていたのかもしれないが、人々がそれに気付くのはいつだって取り返しがつかなくなってからだ。
それは弱者のセオリーだ、などという軽薄な言葉は容認できない。予想できるはずなどないのだ。いったい誰が、ふいに空へと飛び上がってしまう日が訪れるなどと想像できるだろうか。こんなことなら、地下街を通って駅まで行けば良かった。
辺りには彼と同じように空へと飛び上がっている人々が沢山いた。泣き叫んでいる人もいれば、誰にともなく怒鳴り散らしている人もいるが、鼓膜は暴風が吹き荒れているような轟音で飽和してしまっているために、なにも聞き取ることはできない。手足をばたつかせて地上まで泳いで帰ろうとしている者もいるが、いまのところ成果は上がっていないようだ。人間だけではなく、様々なものが一緒に空へと向かっている。ゴミ箱、看板、車、電車、犬や猫や、そんなものたち。浮かび上がっているというよりも落ちているような感覚だが、実際のところはよく分からない。こんなにも長く飛んだことも、落ちたこともないのだから。
いずれにせよ、状況はこういうことだ。客先での打ち合わせのために会社を出て、駅に向かって歩いていると、ふと足の裏が地面から剥がれて、空に向かって真っ直ぐに飛び上がってしまった。そうして今に至る。理不尽にもほどがあるというものだ。
この状況が始まってから、まだそんなに時間は経っていなかった。せいぜい1分ほどだろうか。それでも状況を整理するには十分な時間かもしれないが、整理すべき情報などほとんど存在していない。なにも分からないのだ。だがそれはつまり、考えても無意味だということではないだろうか。いくら悩んでも答えを導き出せないことについて考えることほど、無駄なことはない。むしろ考えるべきことが減った分、別の何かについて検討できる余力が生まれる。では、何を想えばいいのか。
地上は遥か遠くへと過ぎ去り、彼方に富士山の峰が薄っすらと見えた。雲ひとつない空にはどこまでも澄んだ青が続いていて、本来ならば午後にはうってつけの気持ちの良い日和だったはずだ。だが、いまでは雑多なものたちが空を占領してしまっていて、遠景はほとんど見渡すことができなかった。地上に残っている人々は、どのような気持ちでこの空を見上げて(あるいは見下ろして)いるだろう。運良く飛び立たずに済んだ者も、大勢いるはずだ。そう考えた彼の脳裏に最初に浮かんできたのは、妻の姿だった。
この時間なら妻は自宅で家事をこなし、テレビでも見ている時間だろうか。遠くに家屋の屋根らしいものが飛んでいるのが見えるため、建物の中にいる者が安全だとは言い難いが、彼らが住んでいる分譲マンションは頑丈に造られているはずで、そう簡単に地面から引き剥がされることはないだろう。だが、安堵することはできない。もしかしたら妻は買い物に出ていて、帰りに公園にでも足を伸ばしたかもしれない。彼女は近所の公園をたいそう気に入っていて、噴水のそばのベンチに座って木々を愛おしそうに眺めやりながら、ソメイヨシノが咲き誇る日を心待ちにしていた。二人はテレビや雑誌に飽きると、その公園を散歩しながら季節の移ろいや新しく買ってきたコーヒー豆の話をしたものだった。今日はまだ少し肌寒いとはいえ、柔らかな季節の訪れを予感させる優しい日差しに恵まれているし、彼女なら陽気に誘われて公園に足を向けていてもおかしくはない。どうか今日ばかりはものぐさな気を起こして、コタツに寝転がって惰眠を貪っていて欲しいものだが、こればかりは彼女の天運に任せる他ない。だが、彼女はいつも、自身のことをツキのない女だと自称していた。二人のあいだに子供ができないことについて語る時、彼女はたびたび己に宿る貧相な運のことを持ち出したりもした。
このまま彼が大気圏を抜け、宇宙へと飛び出してしまえば、彼女はどうなるだろう。夫が消えてしまった日々の心許なさに、泣き暮れるだろうか。窓からそっと顔を出し、眼窩に散り敷かれた星々を望んで、彼の面影を探すだろうか。だが彼には、そんな彼女の姿を想像することはできなかった。彼女は強い女性だ。彼は妻が涙を流しているところを見たことがなかったし、コーヒー豆だって彼女は自分一人で選ぶことができる。一人でも十分に生きていけるだろうと信じることができるし、すぐに新しいパートナーを見つけることもできるかもしれない。もしかすると、彼女は彼を失ったほうが幸せに生きていけるのではないだろうか。夕食に二人分のサラダを用意する必要もなくなるし、彼女があまり好んでいない餃子を嫌々に焼くこともなくなるのだ。そう思うことで、彼は自身の心を慰めようと努めた。
徐々に寒さが耐え難いものとなってきた。酸素も足りないようで、どれだけ空気を吸い込んでも息苦しかった。車や電車の中にいる人々のことを羨ましく思ったりもしたが、向かう先が同じである以上、大差はなかった。むしろ、電車の中などはここよりもずっと酷い状況だろう。取り乱している大勢の他人の悲鳴や泣き言に蹂躙されながら地球と別れを告げるなど、それこそ悪夢に違いない。
地上に刻まれた文明は境目のはっきりしない無数の点の集合体と化してしまい、周りの人々もいつの間にかすっかり大人しくなっていた。地上まで泳ごうとしていた青年も、今では膝を抱えてじっとしている。彼は密かにその青年を応援していたので、少しばかり苦々しい思いを味わうことになった。だが、これ以上あがくことに意味がないのは明らかだった。たとえ理不尽に突きつけられた呆気ない結末であったとしても、受け入れなければならない。それがいかに屈辱的で許しがたい運命であったとしても、現実であるならば、やはりそれは彼の行き当たった人生であった。であるならば、彼が最期に自身の心と折り合いをつけようとしても、誰も彼を責めることはできないだろう。
彼はそっと目を閉じて、彼を取り巻いていた様々なものたちに別れを告げ始めた。15年に渡って彼を雇ってくれた会社と、彼を支えてくれた上司や後輩たち。あと30年は住むはずだったマンションの青白い外壁と、赤いソファが並んだ広々としたロビー。春には満開の桜で艶やかに染まる馴染みの公園や、冷えたグラスに注がれた黄金色のビール。そして、11年の歳月を隣で過ごしてくれた妻のことを想った。だが、なにもかもがあまりにも遠すぎた。ほんの3分ほど前までは掌の中にあったはずのものたちが、今ではぼんやりとした印象だけを残して、まるで別の世界の出来事のように感じられた。だが、それでいい。重力を失った彼はどんどんと希薄になっていって、数十分後には宇宙を漂う一握の塵と化すだろう。こんなにも沢山の想いを持ち込むには、そんな身体では小さすぎる。
寒さと酸欠でついに四肢の感覚は消え去り、意識は朦朧としていた。薄く開けた目で煌々と輝く太陽を見上げながら、彼は終わりが来たことを悟った。ふいに全身から力が抜け、ふわりと浮かび上がるような感覚に包まれると、この狂った人生の果てにせめてもの抵抗を添えるかのようにして、わずかに口元に笑みを浮かべた。


だが、ここでは終わらない。
彼が死の感覚だと思ったものは、全く別の事象に関するものだった。違和感を覚えて再び目を開いた彼は、自分が落ちていることに気が付いた。宇宙に向かって落ちているのではない。かつてニュートンが万物に対して示したように、彼はいま、地球に向かって落ちているのだった。
唐突な状況に、彼の理解はなかなか追いつかなかった。それは辺りにいる人々も同様で、誰もが新たな展開に戸惑っているようだった。ゴミ箱の中から溢れた雑多な細切れたちが、静止した噴水のように彼の上方で舞っている。それを無感動に見つめてから、彼を待ち受ける地上をじっと見下ろした。
これで地上へ帰れるなどと、安堵できるはずもない。このまま落下を続ければ、いずれ地面に激突することになるだろう。雨の後のアスファルトにへばりつくアマガエルのように、惨たらしく潰れた自身の姿を想像して彼はぞっとした。いずれにせよ、結末は変わらないのだ。むしろ宇宙へと向かっていた先ほどまでのほうが、いくらか情緒のある最期であったかもしれないと考えて、彼はすぐさまその愚かな考えにツバを吐いた。こんな無茶苦茶な状況にあっては、情緒も詩的もあるはずがない。
しかし、このまま無残な墜落を迎えると決まったわけではない。こうして状況が一変した以上、この先もまた何かしらの変化が起こる可能性は十分にある。地上に激突する直前に、風を掴んだ燕のようにふいに身体が跳ね上がり、この数分間の出来事が全て不愉快な冗談であったかのように地上にそっと着地することもあるかもしれない。そうすれば、彼はぶつぶつと文句を言いながらも路上に散乱した有象無象の中から自分の鞄を探し出し、客先へと向かって再び歩き出すだろう。
今日の打ち合わせ相手は高慢な男で、こちらが弱い立場なのを良いことに、次の談合入札に必要な膨大な資料を来週までに全て揃えろと彼に命令する。お決まりのやり取りだ。彼にはその男が「分かっていると思うが、」と言う時に鼻がピクリと震える様子までありありと思い浮かべることができる。会社に戻っても、彼の上司はそれに従うことが当然だと考えていて取り付く島もないし、後輩たちは自身の仕事とフィールドを守ることしか頭にない。ようやく帰路に就いたとしても、電車にはデリカシーのない酔っぱらいの群れ。みすぼらしい家屋の門戸では、躾のなっていない犬が狂ったように吠え立てる。
それでも、家に帰れば妻が待っていてくれる。冷えた料理を温め直してくれることはないが、彼女がつまらなそうにテレビを眺めている光景は彼を安堵させるだろう。芸能界の無意味なゴシップを延々と聞かされるよりも、黙ってバラエティ番組を見ていてくれるほうがずっと気が休まるのだ。ローンが四半世紀近くも残っている最寄り駅から徒歩20分の高層マンションの一室で、彼は冷えて固くなった餃子を一心に頬張り、安いビールで喉の奥へと流し込む。
違う、違う、そうじゃない。彼は厚い大気の層に逆らって両手で頭を抱える。物事には良い面もあれば、あまり気に入らない部分もある。当然のことだ。それなのに、どうしてこんなにも目を背けたいものばかりが累々と連なってくるのだろうか。まるで、重力が彼の心を暗い地の底まで引っ張り下ろそうとしているかのようだった。そう思う間にも彼は、「あの人はきっと種無しなのよ」と低く潜めた妻の声を思い出している。それは、妻の実家で妻と義母の会話を立ち聞きしてしまった時に耳にしたもので、その言葉が今でもずっと彼の心に巣食っていた。それ以来、彼は妻の視線を恐れるようになった。彼女の視線にはいつも非難が含まれているような気がして落ち着かない。だから週末には気詰まりな部屋から逃げ出して、近所の公園で時間を潰す。コーヒー豆だって、彼女の好きな種類を買わされるだけで、彼が選んだことなんて一度もないのだ。もしも地上にもう一度立つことができたとしても、彼を待っているのはそんな日常だった。
曖昧な点の集合体であった地上は徐々に輪郭を持ち始め、建物や道路はそれぞれの境界を獲得しつつあった。彼が地球と最後の衝突を果たすまで、もうあまり時間は残されていない。周囲の人々もすっかり元気を取り戻していて、この先に待ち受けている無慈悲な運命に向かってなにごとかを怒鳴ったり、腕を振り回してみせたりしている。彼が気にかけていた青年は両足を必死に動かして、空を走り抜けようとしていた。誰だって、むざむざと死にたくなどないのだ。たとえ辛く耐え難い事柄がいくつかあろうとも、こんなふざけた状況で一方的に緞帳を下ろされるよりは、生きているほうがずっと良いではないか。終わりにしたいと願うほどに辛いことは、まだ彼の荷物の中には存在していないはずだ。様々な問題はたしかにあるが、明るいことや楽しいことだってあるのだ。
もちろん、そんなことは重々承知している。それでも彼は、込み上げてくる感情を押し留めることも、見ないようにすることもできなかった。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。あんな生活はもうたくさんだ。彼は誰にも聞こえることのない泣き言を叫び続ける。ここではないどこかへ行きたい。大きな山が連なる牧歌的な国で、まっさらな白いタオルのように新しい生活を始めたい。暖炉にくべる薪を割る手を休め、丘を越える羊の群れを眺めながら、隣人から分けてもらった瓶詰めのピクルスを今夜味見してみようかとぼんやりと考える。そんなありもしない平和な日々を想っても、彼の心は少しも安らぐことはなかった。
ふと気が付くと、高層ビルの頭が驚くほど近くに見えていた。もうこんなに下まで落ちてきてしまったのかと、彼は愕然とする。あと十数秒で、彼は地面に叩きつけられるだろう。それが現実だった。無事に地面に着地することができるかもしれないなどと妄想していた自分の愚かしさが忌々しかったが、それもあとわずかの時間で霧散するはずだ。
彼は迫りくる地上を見ているのが恐ろしくて、強く目を閉じる。痛みを待ち受ける口元は恐怖に歪んでいたが、ようやくこの馬鹿げた飛行が終わるかと思うと、ほんのかすかにではあったが安堵の気持ちが起こらないでもなかった。悔しさはあまりにも濃いが、ここが終局であった。告げるべき言葉も口にできず、思い浮かべるべき人の姿すら像を結ばないうちに、間もなく強い衝撃が全身に襲いかかり、それからふわりと浮かび上がるような感覚に包まれて、彼の意識は高くへと上っていった。


だが、ここでは終わらない。
彼が死の感覚だと思ったも――






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上森 康大

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