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だいたい30回寝たら終わる夏を、わざわざ惜しむふたり

今日は、男子高校生と会う約束をしている。

暦的には、夏の名残のような日付であっても、暑さは歯切れ悪く続いている。深夜に運転を止めるよう指示したエアコンが正しく働いてくれたせいで、起きた瞬間に汗をぬぐって、シャワールームに直行する羽目になったが、概ね快眠だった。

約束の時間は10時で、シャワーを浴びる前にみたiPhoneの液晶に浮かんだ数字は9と二桁だった。LINEのメッセージ通知もきていて、たぶん、彼は遅れるんだろうなと思うと、もう全身、隅々まで綺麗にできるということで、石鹸をあわ立てる。

入念なシャワータイムを終えて、ワンピースをかぶるみたいに着る。黄色だとはしゃいで見えるかなと思って、濃いブルーにした。

ブブッと、シーツの上でiPhoneが震える。男子高校生の、LINEのアイコン、あくびする猫のプロフィール画像とメッセージが画面上で光って消えた。見ると、やっぱり「やばい」「着くの昼」と2個吹き出しが並んでいる。

やっぱり、と時間を確認する。いまは午前10時。予定通りなら完全なる遅刻だけれど、待ち合わせ時間が更新されるならなんてことない。約束した場所へは、1時間もあればたどり着ける。

わたしも彼も、時間の程度に差はあっても、気がついたら寝坊、みたいな、休みの日に、学生も社会人もこぞって陥ってしまう罠にはまっていて、おかしい。鼻歌を歌い上げたくなる。急に時間がたっぷりできてしまった。

シーツをはいで、枕カバーもはいで、洗濯機に放り込む。じぶんの身体しかり、入念に綺麗にしたいものが部屋にあると、簡単に時間を潰せるので、いいなあと思う。深夜から汗を受け止めていたTシャツと下着も一緒に放った。


男子高校生が、わたしの肩を叩いたのは17時になってからだった。本屋で文庫本を真剣に読み込んでいたら、トンと一回、爪が丸くて、節の目立つ長い指が肩を跳ねる。振り返ると、イヤホンを外しながら、男の子が私をみていた。

「ごめん、遅れて」

すまないなんて思ってもいないけど、という態度を隠さずに言葉にできるのは、すごい才能だ。いつも思う。彼の、彼らの、大人をふりまわしてもまだ許されるという傍若無人さや、思い込みの良さが、清々しくて好きだ。

「いいよ」と微笑んで、文庫本を閉じる。本屋を出て、向かうのは近くの、狭いと広いの間ぐらいの規模の公園。先導するのは彼だ。昔から、当たり前みたいな顔をして、人の前を歩く子どもだったに違いないし、実際そうだった。

なんで公園なの、と道すがらコンビニで買い物をしながら聞く。彼は、高い身長を折りたたみながら、低い位置にあるドリンクをとった。背が高くていいことなんてない、と上機嫌に。そして少し考える素振りをして、いまみたいな時間の、夕方と夜の間の公園は、死角に潜り込まれて不用意に傷つけてしまわないか心配になる小さな子どもがいないし、夏の暑さも引いていく気がしていていいと、言った。男子高校生はペットボトルのスポーツドリンクを、わたしは片手にビールを持って歩く。

男子高校生は、年上の友人の元息子で、わたしは彼が生まれた時に出会った。きちんと不定期的に会うようになったのは、7年ぐらい前。わたしが進学のために上京してきてからで、小学生と大学生が並ぶ視覚的な危うさを、いまだに感じている。姉弟に見えているだろうか。ひとの少ないこの場所で、感じないはずの視線が痛い。

「涼しいけど、暑いな」
「9月いっぱいまではこんな感じだよ。毎年そうでしょ」

ぽつりぽつりと、落とすみたいな会話をする。続けることが必ず必要ではない、という共通認識があるから成り立つのだ。こういう、異質な居心地の良さ。生温い、37.5℃みたいな肌感覚のやりとり。ぬるま湯みたいな時間。

夏休みの宿題が終わっていない、と彼がぼやいた。いつまでたっても、永遠に終わらない気がする、と続ける。わたしは、せっかちと心配性を併発させた学生時代を思い出した。夏休みがはじまって1週間が、宿題のピークだった。自由課題みたいな課題は休みが始まる前から取り組み、日付などを”いい感じに”調節していた。

「読書感想文が、高校生にもなってあるんだけど、おすすめは?」
「ジャンル問わず?」
「いーよ、なんでも」
「夏のおすすめは、はてしない物語」
「まさかの上下巻作品とか」

知ってる?もうあと1週間ぐらいで休みが終わりだけど。
猛抗議されて苦笑う。苦笑いを罪悪感なく友人に向けられるようになったとき、大人になったな、と思った。いやな大人になった。いやな大人なので、ミヒャエル・エンデの名作で児童書だからちゃんと読めるよ、と適当なことを言う。

ひゅわっと、風が吹いた。夏の風だ。やわらかい布で肌をなでるみたいな、やわらかい風だ。いよいよ空が暗くなったな、と改めて思い、隣の彼をみる。
無地のTシャツに、ジーンズ。さっぱりした格好に合わず、手ににぎるペットボトルは汗をかいていて、砂地にボタンッと水滴が落ちていった。したたる果実のようだな、と思って、それがあまりに意味不明で、視線を、自分の手元に戻す。ほとんど飲みきった、缶ビール。夏にいっそう愛すべき、アルコール飲料。

彼が横で、とぷん、とペットボトルの水分を傾けた。そのままたぶん、嚥下して、身体に染みわたらせるのだろう。

遠くから、ラーメン屋さんの音がした。もう聞かなくなって久しい、ラーメン屋台の音。チャルメラの笛にはどうしてか、陽気さと切なさが共存しているように思う。郷愁、というとちょっといかつい。どこかで、おじさんがトラックを運転しているのか。もしかしたら、おばさんかもしれない。

「もーう、」

遠くで歌を聴いたからか、無性に歌いたい気持ちになって、いまなら酔っぱらいの奇行として許される気がして、ぽそぽそ口を動かした。

「もーう、いーくつねーるーとー、しーんがーっきぃー」

正確には、缶ビール1本で酔えるほど、幼くなく、かなりしっかりと歌い上げた。若い男の子がギョッとして、もっと言うと、「嘘だろ」とはっきりつぶやいてドン引きしている。暗いからか、顔が引きつり、より青ざめてさえみえる。変なことをしていて、引かれることが分かっていても、なぜかいざドン引きされると、傷つく。

「そんな顔しないでよ」
「いや、無理でしょ。ええ・・・。なんで歌った・・・?」

「チャルメラの音が聴こえたから」
「えっ、ぜんぜんわかんないんだけど。しかもあと5回寝たら学校始まるの。思わず数えちゃったじゃん、やめて、巻き込むの」

最悪、とほんとうに苦々しく吐き捨てられる。あまりにも、あまりにもだなと思って、口先だけ謝罪をした。お互い納得いきませんが、と眼力だけで伝いあってしまって、そっと目をそらし、空になったビール缶を傾けて天を仰ぐ。いいな。たやすく影響を受けてしまう性根の柔らかさと、他人への苛つきを隠さないところが、高校生という、大人と子供の境目らしさで許せてしまうから。ただチャルメラの音を聴いて、ラーメン食いてぇな、って言わないところは、正気を疑うほど、高校生っぽくない。偏見すぎて、口に出すのはやめるけど。

汗ばみ、はりついたワンピースの胸元を引っ張り、パタパタして、生ぬるい風を布のなかに呼び込む。

最後まで読んでくださりありがとうございました。スキです。