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30 人生はバカでいる方がマトモ

 前々回(28)は、私たちは自分で勝手に他人に自分の事を説明できないといけないと思い込んでいて、説明し易くて理解してもらい易い自分を目指してしまっているという話でした。今回は、説明し易くない、理解してもらい易くもない自分という点についてです。

 昔、私がある企業(メーカー)で仕事をしていた時の事です。私よりも歳上でいつもザンバラ髪、結婚には興味無いらしく松本零士の男おいどんみたいな人がいました。いろいろありましたが、その人との仕事の事は覚えていなくて、その人が言ったある一言だけが妙に記憶に残っています。「小利口になるな、大バカになれ」です。

 サラリーマンもある程度になりますと、自分が職場や会社でどんなポジションかわかってきますし、将来像もほぼ見えてくるものです。30代前後でいきなりゴルフを始める人が出てきて驚いた事もあり、昇進とともに口髭を生やし始めた人、スキルのレベルがとても高くてこの人こそはと思っていた人が重用されないのを目にする事もありました。もちろん男おいどん氏は昇進とは程遠い側にいたのでした。ホワイトカラーの技術屋ではありましたが、いつも汚れた作業着を着てそのまま一升瓶を持って歩いている方が似合うのでしたが、あにはからんや、誰よりも小説に親しみ若いうちからヘルマン・ヘッセを多く読んだ文学青年、いや、おじさんだったとは!

 ですが、そのヘッセ作品がおいどん氏の人生にどんな影響を与えていたかは全くわかりません。ただ、その端っこに先程の言葉「小利口に・・・」があったのは事実と言えるでしょう。


 ここで、ちょっと別方向から書きましょう。私が常々不思議に感じている事なのですが、最近でもよく「多様化」という言葉が使われます。これは一例です。

 これは行政が書いた文書ですが、他にもジャーナリストが書いた文章も多くあります。ところで、あなたは社会が本当に多様化していると感じますか? 私はしません。どちらかというとその逆で、どこかに集中しているのではないかと感じる事が多いです。

 さて、この多様化ですが、実はもうずいぶんと以前から言われています。私が一番印象に残っているのは1990年代の中頃でした。これからは多様化の時代と、いろいろなところでまことしやかに言われていましたし、異を唱える者はいませんでした。その中で、具体的に言われていた事があります。「これからの時代、音楽において大ヒットは出てこなくなるだろう」という意見がそれです。私もそうかもしれないなあと簡単に考えました。ですがこれは、言われた直後に否定されなければなりませんでした。驚くべき事にビッグヒット曲がすぐに出てしまったのです。よく見れば音楽以外にも人が一箇所に集まる現象はいくつもあります。学生の就職先などもそうで、景気が悪くなると安全な職業が多く選ばれる傾向は以前にも増していますし、何とか世代のようにある年代をひとまとめにして言って構わないほどに一定の傾向が出ます。そしてスポーツイベントや皇室関係のイベント等でも信じられないほど人が集まります。

 そうした傾向を見ていますと、多様化とはいったい何だったのか?、と考えてしまいますが、要するに、既存のやり方から離れていく傾向を評論者は多様化と言っていると解釈できます。実際に散り散りバラバラになるのではなくて、どこかにコブのようにできた塊が元のところから離れていく様子を言っているだけだと考えられるのです。そうして結局はコブの方に徐々に重心が移ってきてそちらが主になっていく。つまり、少しづつ移行していくだけです。評論する人はどうしても従来からの重心にいますので離れていく様が多様化に見えてしまうのでしょう。

 私たちはいつでもこうした重心移動を経験します。例えいくつかに分割されても必ず自分は主流の方にいると考えますし、何より自分の周囲にはいつも共感者がいる事を前提に行動したり物を言ったりするのです。ですからあまり多様化はしません。簡単な例としては新型コロナやワクチン、またはマスクの問題におけるやりとりがあります。(私はここで、どちらが正しいと判断はしません) 肯定側の人たち、そして反対側の人たち、どちらも自分の言う事が正しいと考えて発言しました。ただ、発言する時にその発言の前提として、自分と同じ意見の人がある程度いて賛成してくれるという考えがベースになっていました。

 これがもし、自分一人だけが彼らと全く別の見解を持ち、別の意見を持って発言したとしたらどうでしょう? それはかなり勇気の要る行動という事になります。研究者の方々は自分でデータを持って論文を読み漁るでしょうから別ですが、一般の人にはそんな事をする勇気はまず無いでしょう。ですから、ほとんどそんな人は出てきません。多くはどこかに自分の考えの拠り所がある事を前提にして行動したり言ったりします。つまり、そうした拠り所をあてにしている以上、多様化は無いのです。つまり、皆、その意見の正しさは置いておいて、他人に認められる小利口でいるわけです。

 もし、小利口をやめて、自分自身が考えて、他人にどう言われようとそれを信じ続けますと、当たり前ですが、大バカです。仕事場でそれをやりますとかなり不利でしょう。昇進も昇給も・・・、下手すると左遷、飼い殺し、リストラ対象、社内失業者になります。正しい事を言っているかどうかは関係ありません。試してみますか? 私はこれ、試した事があります。本当にそうなります。ですが、悪い事ばかりではありません。なぜなら、日本では会社は人をクビにする事に慣れていませんからほとんどの場合クビにはなりません。給料をもらいながら自分で好きな事ができる場合もあります。次の仕事に備えてプログラミングを独習する等、割合簡単にできます。パソコンで小説を書くのも良いかもしれません。積極的にお勧めはしませんよ、もちろん。


 余談から元の話に戻ります。つまり、自分自身で何か考えて行動するとそれはほとんどの場合、周囲の人たちとは違うものになるのです。考えないで真似するという事ばかり学校では教えられますが、人間ですから考える事は誰にもできてしまいますし、考えるという行為自体がそれは「他人と違う思いを抱く」に他なりません。でなければ「真似る」のままで考えている事にはなりません。コンピューターに任せる方が上手くいきます。つまり、人間は誰でもちょっとでも考えれば必ず「大バカ」になれるわけです。

 大バカである方が人間としてマトモというわけです。同じ意見の仲間に入って安心して過激発言するよりも、仕事で上手くやっているように見られようとして時間を消費するよりも、自分だけが思いつく事を考えている方がよほどマトモではないでしょうか?

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