山本寛インタビュー(前半)

アニメーションの面白さ、アニメ制作の元について聞いてみる。

―なぜアニメという表現方法を選んでいるのですか?―

山本  それね。訊かれると難しくて、よく言われるんですよね。なんでアニメなのですか?実写でもいいじゃないですか、山本さん実写のほうが向いていますよって。でも宮﨑(駿)[1]さんは頭の中に浮かんでいるものは実写らしいのですよ。完全なる実写で。

だから僕らの中で一番いい例えとしては、もう、それを書く手段、書く道具が違うだけで、要するにそれは鉛筆で書くのか、筆ペンで書くのか、万年筆で書くのか、シャーペンで書くのかの違いくらいでしか考えていないのですね。それに僕は実際実写の映画も何本か撮っているし、別に実写でもいいじゃないかという話にもなるのですよ。ただ、僕らの感覚で言ったら、それぐらいの違いなのですね。俺は鉛筆で描くのが慣れているから鉛筆で描く。たまにペンタブで描く。作っている側からしたらそんなもんです。

あと、僕の場合も頭に浮かんでいるものはほぼ実写なんです。実写で浮かんでいるものは実写でやればいいじゃん!てなるのですけど、やっぱり、ひと捻りを加えたいって衝動に駆られるのかな?うーん、要は夢みたいなものですね。夢を見ているときは現実って思いきや、起きたらハチャメチャだなぁって、設定滅茶苦茶だなぁって。あれに近くて人間の脳みその中っていうのはカオスなわけですよ。実写だと自分たちで思っていても、吐き出してみたら意外とアニメだったなぁと、そういうものを感じているのではないですかね。もちろん吐き出す時は実写だって言う人もいますし、アウトプットする際、頭から手なりを使って、何らかの具体化・具象化をするだけであって。

うーん、みんなもっている最初のイメージは一緒で非常にカオスなモノだと思っていますね。でも、それで出したものを観る、受容する際には僕はかなり区別ができると思いますね。まあ、俗によく言われるのはコンテクストって考え方。ハイコンテクスト、ローコンテクストという区別ができる。

アニメはハイコンテクストで、映画はローコンテクストだという分け方。だから、情報の受け入れられ方が違うと。もともとアメリカの文化人類学者が発表した考え方で、だからどれが良くてどれが悪いじゃなくて、それは「映画を観る」っていうのと「アニメを観る」っていう情報の受け取り方として違いがあると。ハイコンテクストっていうのは簡単に言えば「察してくれ」ということですね。お互いに必要以上言わなくても分かるよねって。それに対してローコンテクストってものは、とにかくどんなに頭悪いこともクドクド説明しなきゃわからないっていう。だから実写っていうのはもうカメラに映る必要のないものまで映ってしまう。そこまでしないと現実感が出ない。で、アニメっていうのは簡略化されている。記号化されて抽象化されているものだから、日本人向けなんです。

日本というのは察しの文化。だから伝統的に単一民族であったというのも含めて、「おはよう」といった挨拶だけでも「失礼します」にしてもアメリカだったら「Excuse me」だけで済むのに日本語は「ごめんください」とか「恐れ入ります」とかいろんな言葉を使うと。記号だけは発達して多彩なんです。いろんな言葉を使って察してくれというニュアンス、分かりやすさでなくニュアンスの多彩さ。そしてその言外の意味というものを汲み取るのが好きな民族だから。俳句もそうだし、日本画もそう。やっぱりごちゃごちゃ書き込まないのですよね。その延長線上に日本のアニメがあるから、日本人に流行ったのだろう。

日本人はそうやって、とんでもなく簡略化されたキャラクターを―目が滅茶苦茶でかくて顎が尖がってても人間として認識できると―生み出した。

というのを踏まえて、みんなインプットする際は、やっぱりそれで一番大きいのは民族性だと思いますね。

ハイコンテクスト文化

文化人類学者のE・H・ホールの理論における文化の区分の一つで、コミュニケーションに際して共有されている体験や感覚、価値観などが多く、「以心伝心」で意思伝達が行われる傾向が強い文化のこと。一般的に、日本の文化は「空気を読む」ことや「状況を察する」ことが重視されることから、ハイコンテクスト文化であるといわれる。ハイコンテクスト文化に対して、言語による意思伝達に対する依存の強い文化をローコンテクスト文化と言う。[実用日本語表現辞典 ]

[1] 日本のアニメ監督。代表作「となりのトトロ」等


インターネットの登場により、人の価値観というのは多様化するのではなく、画一化していると感じているらしい。それはどういうことなのか?

山本 僕ね、昔、京都大学アニメーション同好会っていうのに入っていてね、そのとき自分たちで「今年のアニメベスト10!」って挙げたのですよ。で、同時に東京大学アニメーション研究会も「ベスト10!」って挙げて、結果が真逆だったのですよ。

―真逆だったと!?―

あー、これ面白いねーって、そりゃそうだよねってね。場所が違えば、集まる仲間も違えば、価値観も違うのだから評価っていうのがコロっと変わるのが当たり前だった。

今はどうなったかって、SNSでみんながみんな情報共有するようになって、日本のみならず海外も良いもの悪いものがみんな均一化して、クソアニメと神アニメの並びが一緒になったのですよ。日本も海外も。一昨年上海のビリビリ動画の生放送に出たのですよ。そのときコメントで「883 [1]」とやたらうるさいので「オイ、今さっき883って出たけど、お前中国人だと思うけどさ。それ日本人が揶揄する言葉であって、日本人の発想なんだよ。お前中国人だよな?お前のこの発想って日本に洗脳されているんだよな?お前ら中国人って結局今アニメによって日本に文化侵略を受けているんだよ!」って言ったら、コメント欄で中国人がわーわーって言い出した。「俺たちとんでもないことしているのでは?」と大騒ぎになった。

日本のアニメ見ている=反権力反体制っていう部分があって、ちょっとインテリが多いのでしょうね。だから、僕そっちのけで議論なったみたいで、僕は中国語分からないから全然読めないのだけど、滅茶苦茶盛り上がりましたよ。で、その日のアクセス数トップになりました。

それぐらい今の価値観っていうのはグローバリゼーションで均一化されている。昔は違っていた。国、地域によって、東京と大阪ですら違っていたのが今、アニメのグローバリゼーションによって全員右向け右になっているのは正直「怖いな」と思う。そうなると、コンテクストの問題も起きてきて、アニメだから察してくれるだとかそういうことが考えられなくなっているのだろうなと。そういった、人間の感性ですね。その人間の感性っていうのに現在大きな変革が起きているのではというのは感じますね。

[1] 山本監督の初オリジナル作品「フラクタル」のBD初週売り上げ枚数。円盤を人気やできの指標にするサイトがありそこで主に揶揄されていた。

アニメの表現の限界性

山本 アニメと映画と漫画で違いはあるのだけど、それが今まで作っているほうはあんまり違いを意識していなかった。アニメは子どもが見るものと言われていた時代は、アニメは複雑な表現ができないものだろってみんな高を括っていた。それを、宮﨑さんであったり、富野(由悠季)さん[1]であったり、一番は高畑(勲)さん[2]ですね。

高畑さんがそうじゃないのだと抗った結果、アニメというものは、非常に芸術的な表現だと、あるいは情報の発信として深い、複雑なものになっていったのだってね。でもね、そういうのがそもそもの勘違いなのじゃないの?ってこの頃思っていて、それを思い込んだオタクたちは「アニメってスゲェモノなのだ!」いやいや、そうじゃないんだ。お前がアニメを好きなのはお前の頭がハイコンテクストなだけで(笑)。

―はは(笑)。―

ありもしない意味を「察した」つもりでいて、ハイコンテクストとは聞こえがいいが、結局ビット数が、情報量が少ない「簡単な」アニメが好きなだけなのに、アニメはすごいのだ!押井(守) [3]さんはすごいのだ!って言いはじめているのは、なんかね、気持ち悪いですよね。やっぱり理屈で、原理原則論で考えるとアニメのほうが情報量は少ないに決まっているのですよ。だから、子どもには分かりやすい。

しかし、たとえば感情表現ひとつ取っても、アニメの絵っていうのは描けないのですよ。表情とか芝居が。実写だったら亡くなった樹木(希林)[4]さんのように怒っているのか嬉しいのかすら読み取れない、超然とした佇まいをスーッとできるのだけど、やっぱりアニメだとできないのですよ。ただ「喜・怒・哀・楽」って、この4つだけ。やっぱり20年仕事してきて分かるのだけど、「喜・怒・哀・楽」のどちらかに振るしかないって言う。

― その4つに分かれていて、この顔に、この顔にしようって選択しているに過ぎないと。―

人間って、こうやって話していても、今お互い話していていろんな感情があるわけですよ。多分それが表情に出ている。ちょっと緊張があるだとか、おっとおっと、山本さん、えらいこと言いはじめたなだとか、戸惑いがあったりだとか。・

―ばれていますね(笑)。―

もちろんそれを面白いと思ったり、やべっと思ったり、その5つ6つの感情がひとつの表情に出ているんだけど、アニメはそれをたったひとつの感情にしちゃうと。それを見て、「これが人間だ!」と思い込むのは非常に危険なんです。

―今さっきの感情だとやっぱりビリビリ動画のところとか記事にしていいのかとは思っていましたね。それを仮にアニメで表現するとしたらにやっとした表情。口元を片方上げた感じに描いちゃったら終わりになってしまうと。―

僕らは仕事でやっているのだからはっきり分かっていますよ、その程度の表現しかできていないと。やっぱりそれに人間性、今人間性っていうのにオタクがやたらめったらこだわっていて、たつき[5]監督の人間性がどうたらこうたらって言っているんですね。

でも彼らの言う人間性って、つまり「喜・怒・哀・楽」でしかないの。だから、「喜」でなかったら「怒」になっちゃうのです。だから危険なのです。そこでヤマカンは人間性がおかしいって言っているけど・・・いや・・・人間性って何?っていうね。お前らの言う人間性ってマジで選択肢4つぐらいしかないのだろうって。やっぱり普通、人間の良い悪いってもう無限のスケールがあってどこで測ればいいのかわからないわけですよね。良いやつ悪いやつってね。それで嫌なことされたらこいつは悪いやつだー。優しくしてくれたら良いやつだーって。それは分かるのだけど、傍から見ている分には、どんな芸能人であってもどんな人間であっても良く分からないはずですよね、実際どうなのか。だいたいはそこそこにいいやつだしそこそこに悪いやつって程度に認識するのだけど、オタクとかアニメ界隈になるととたんに振り切れちゃうのですよ。

―その2つだけで判断しちゃうと。―

うん。それは何故かと言うとアニメがそうだからです。「喜・怒・哀・楽」、それに感化されちゃった人間は、神だ!クズだ!って言うね。だから僕はアニメの世界をそのまま現実世界にフィードバックするのは非常に危険だと思います。

アニメっていうのはその分だけ「喜・怒・哀・楽」が強調できるっていう。分かりやすい!分かりやすいのですよ、実写に比べて。うん、そういうことでも汎用性が高いというか普及がしやすいというか、そういう表現ではあると思います。だからこそ「サザエさん[6]」も「アンパンマン[7]」もやっている。ただし、そこに潜む危険性っていうのも考えなければならなくて、「アンパンマン」を否定しているわけじゃないのだけど、やっぱりアンパンマンを大人になって「アンパンマンだー!ばいきんまんを倒したぞー!」って狂喜するやつはいないわけで(笑)。さすがに「アンパンマン」で育った人たちがアニメを見続けるからにはもうちょっと色々な表現が必要で。で、その表現には限界があるから、歪なオタクが生まれると。

なぜ僕が言葉を発しているのかというの、アニメではそういう大事なところが描き切れないからです。

[1] 富野由悠季監督。代表作に「機動戦士ガンダム」等

[2] 高畑勲監督。代表作に「火垂るの墓」等

[3] 日本の映画監督。代表作に「機動警察パトレイバー the Movie」等

[4] 日本の女優。代表作に「万引き家族」の柴田初枝 役等多数

[5] 日本のアニメ監督。代表作「けものフレンズ」

[6] 長谷川町子作「サザエさん」を原作とする日本のテレビアニメ。49年以上放送されている。

[7]やなせたかし作「アンパンマン」を原作とする日本のテレビアニメ

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