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『私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは…』北尾監督インタビュー!


こんにちは。映画チア部大阪支部です🔆

今回は、シネ・ヌーヴォで8/5 (土)〜公開予定の映画『私はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか、そしてあなたは…』の北尾和弥監督にインタビューしました!

皆さんがまず気になるであろう印象的なタイトルの意味や、撮影において監督のこだわった部分が作品にどう表れているか…などたくさんお聞きしました。(北尾監督、長時間ありがとうございました…!)

夢なのか現実なのか分からないどこか浮遊感のようなものを感じる、そんな不思議な作品です。
この感覚をぜひ皆さんにもシネ・ヌーヴォで体験してほしいなと思っています🫧

(聞き手 : 映画チア部 大阪支部 かんな)


北尾和弥監督

チア部:今日はシネ・ヌーヴォまで来てくださりありがとうございます。ちなみに今までシネ・ヌーヴォに来たことは?

北尾監督:あるんですよね。そのときは19、20歳の頃かな、2年くらい大阪に住んでいたので結構来てましたね。
20年も前の事なので、ヌーヴォで何の映画を観たかまではあまり覚えてないんですけど、『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)は観ました。知ってますか?

チア部:はい。1度観たことがあります!

北尾監督:ヌーヴォで観た初めての作品なんです。元々田舎に住んでいたので、観客参加型の上映には結構びっくりしましたね。ヌーヴォは他の劇場では観れない映画をやっていますよね。

チア部:そうですね。

北尾監督:当時は結構よく来てましたね。

チア部:ちなみにシネ・ヌーヴォを知ったきっかけって何ですか?

北尾監督:えー、なんだったんだろ…。

チア部:たまたま通りかかったとかでしょうか?

北尾監督:いや、多分他の映画館に行ったときにチラシを見つけたとかじゃないですかね。当時のことだからネットで調べたとかじゃないと思う。

チア部:初めてヌーヴォに来た印象は覚えてますか?

北尾監督:入ってみてびっくりしますよね。(笑)

チア部:そうですね。(笑)

北尾監督:外観も!当時から入口もあんな感じでしたからね〜。

チア部:まさかここに映画館があるなんて…って感じですよね。

北尾監督:突然現れますからね。(笑)この感じにはびっくりした覚えあります。

チア部:ですね。自分もそうでした。(笑)

北尾監督:他にこんな映画館ないからな〜。

チア部:唯一無二感ありますよね。


北尾監督:ありますね!

チア部:じゃあ、早速作品について色々お聞きしていこうかなって思います。

まずタイトルが印象的だなと思ったんですけど、タイトルに込めた意味などあれば教えてほしいです


北尾監督:タイトルは元ネタがあるのをご存知ですか?ポール・ゴーギャンっていうフランスの画家がいて、その方が描いた僕の好きな絵があるんですけど…。それが似たようなタイトルなんですよ。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897−1898)

まあ、色々制作の過程があって…。最初は、タイトルをつけてなかったんですよ。それである程度仕上がってきた時にタイトルをどうしようかなと思って、改めて映画の中に生まれた内容やテーマを考えてみて…社会の中でどうすればいいのか分からない人とか、拗ねてる人とか(笑) 
そういう人たちが出てきて、出会って会話した主人公の彼女がどうするのかっていう話なんで、ふとこのタイトルが頭の中に思い浮かんだんですよ。

これを使って、何かそれらしいタイトルにできないかなと思って。その時に、「我々」っていうのは今っぽくないなと思って。「我々」ってやっぱり何か昔っぽいなっていうのがあるんですよ。それこそ集団で何か意思を持つような活動が多い時代。

簡単な話で言うと学生運動とか労働者運動とか。リアルに密に繋がり合った個人が形成する集団が多く存在した、僕らの時代よりもっと昔の話ですけど、「我々」ってそういう意味で今っぽくないなと思った。もうちょっと、個人的な映画でもあるし、現代においては個人的な「私」っていうところから進まないと、「我々」にたどり着けないというか…。

社会との接点を持つためには、「我々」から行くともう既に間違っている気がするんです。だから、私っていう個人に置き換えて、それをタイトルにしようかなと思ったっていう感じです。

チア部:タイトルの最後に「そしてあなたは…」ってあるんですけど、これはどういった意味が?

北尾監督:これは、結局そのまま個人の中で収まってしまうと、社会や外部と繋がれない。やっぱり何かと関係を持たなきゃいけないっていうことはあるんだろうなと思っています。個人が直接社会に繋がっていくのが現代だと思うんですよね。社会を考えるためには個人から考えなければならない。そして逆もまた然りという。そういうニュアンスをつけたいなと思ったんですよ。

元々「我々」が入っていると、それは必要ないのかもしれないけど…。
「私は」ってなると、やっぱりどこかで外の世界と繋がらなきゃいけないなと思って。
「そして、あなたは…」っていう「あなたは」っていうのは、劇中で探している人物の事かもしれないし、そこら辺で会う人たちのことかもしれないし、もしくは観ている人たちのことかもしれないなっていう、多様な意味が持てるかな、持たせられるかなと思ってつけたっていう感じです。

チア部:ありがとうございます。

作品の中で主人公が4人の人物たちと出会っていくと思うんですけど、この人たちは実際に誰かモデルにした人はいるのですか?


北尾監督:特定の人物っていうのはいないですね。大体あれは人間なのかどうかも怪しいですからね。(笑)
撮っている最中も分からなかったです。なんかずっと疑問でしたね。この人たちは人間なのかっていう。別にそれはどっちでもいいと思いながらやってたんですけど…。

なんかね、主人公に悪いことをささやく悪魔のようでもあるし…。そんな感覚の方が強かったですね。全体的にそうかもしれないですけど、個人から話をしていくような、ある特定の人称性みたいなものから遠ざけていくようなやり方をしていました。

チア部:結構皆さんキャラが立っているというか…。そういったキャラクター性というのも1から作り上げていったという感じですか?

北尾監督:そうですね。でも、多分役者がすごいんだと思いますね。この映画の台本はほとんどセリフだけなんですよ。それで「動きはやってみないと分からないから、動きはその場でお願いします。現場でそれを作ってからカットを割ります。」みたいなやり方をしていました。

役者とは、セリフと衣装の相談だけはしたかな。「衣装こんな感じがいいんですけどね…。どうしましょうかね。」みたいな話をして、自前で用意してもらってという感じ。あの人物達自体、本当に僕が書いたセリフしか元がないので、そこから人物に作り上げたのはほぼ役者だと言ってもいいぐらい。
その点は、すごく役者に恵まれたと思っています。

人物像的な演出っていうのは、ほとんどしてないと思うんですよね。
このほうがいい!というような修正はしてなくて、ほとんど役者が現場に持ってきたものでOKだったので、多少お互いの疑問点などの相談はしたかな、というぐらいですね。

チア部:登場人物たちに名前がないっていうのも、印象に残ってるんですけど、これにもさっき仰ったように、人間かどうか分からない不明確さのような狙いがあるのかなと思って…。

北尾監督:主人公もそうですけど、やっぱり人称性をそぎ落としたくて。
いわゆるキャラクタライゼーションみたいな人物像の作り方をしたくなかったんですよ。だから、この後ろにある設定とかもないし、そういうものをそぎ落として、映画を撮れないかなと思った。
それは、映画の話でもあるし、どっちかっていうと僕はお芝居に対して思ってたことで、演技が全体的に特徴的だと思うんです。

お芝居に対して、すごく疑問を持ってたんですよね。いわゆる、今のリアリズム演劇というか。現実らしいことを良しとする、その演技の考え方やお芝居の考え方みたいな事にすごく疑問を持ってたんですよ。

現代の一般的な演技法の元を辿ると、コンスタンチン・スタニスラフスキーっていう、ロシア人の俳優教育の大家の方がいて、その人が組み立てたスタニスラフスキー・システムという演技理論を元に、アメリカで色んな人たちが可能性を広げて…、それこそロバート・デ・ニーロとかがそうなんですけど、あの世代の人たちがやってたメソッド演技法っていう、より自然でリアリステックな演技や表現を求めたものがベースにあって。

なんか映画の演技ってそれだけじゃないでしょうっていうのが僕の中にあったんです。それに対するアンチテーゼ、反骨心みたいなものも多分あったんだと思います。このままいくと、そういうお芝居しか存在しなくなるのはちょっと違うよな、映画ってもうちょっと可能性あるんじゃないかなと思って。
それで、違うやり方をしたい。 かと言ってそれより前の大昔のようなやり方に戻ってもしょうがないんで、なんか別のやり方を探そうと思いました。

それで違うやり方で、映画にしかないリアリティみたいなものを出せる方法があるんじゃないかと。
それこそ、ゴダールなんかもそういう一般的な芝居の方法論ではないし…。
色んな人がいるけど、僕の好きな映画監督たちは結構そういうのと関係なしにやってるなっていうのが自分の中にあったんで、そこに何か新たなやり方を探したいなと思いました。
そこで、人物像を一般的なやり方で掘り起こしていく、みたいなやり方をまず一旦辞めようというのがあったんですよ。

チア部:はい。確かにゴダールは脚本が無く、即興で撮ることが多かったそうですよね。

北尾監督:あとはセリフが特徴的な映画もたくさんありますしね〜。

チア部:そうですね。

北尾監督:日本の映画にしても、昔の演劇芝居的なものもたくさんあるけど、増村保造みたいな人もいるし…。
何かこういう幅がね、色々あったらいいなと思って。じゃあ自分だったら何できるんだろう…というような感じでした。

チア部:なるほど。ありがとうございます。

作品を観ていて、セリフが小説や詩を読んでるみたいな感じがして…。これには何か監督自身のこだわりがあるのでしょうか?


北尾監督:ありますね。はい、流石にありますよね、あれは。 (笑)
セリフに関しても、今の話と繋がってくんですけど、やっぱり人称性みたいなのを削ぎ落としていきたいみたいなのもあって…。
そうなった時に考え出したら、普通のセリフっていうか、本来あるべきというか、リアリティのある僕らが日常で喋ってるようなセリフがもはや必要ないってなってきたんです。
そうしたらどうなるかっていうと、何か意味を凝縮してったような、ああいう詩的で象徴的な言葉をたくさん集めたような、そういう言葉たちでどうにかやってみるのはどうだろうっていうのがありましたね。だから、あれもやっぱり人物からその言葉を引き離すというか…。
そんな感じで始めたのもあります。

終盤にかけて真っ暗なシーンが増えるじゃないですか。あの夜の海のシーンとか。あの辺が、僕が1番やりたかったことだったりするんです。暗闇 にしていくことによって、言葉が体から離れて宙に浮いていくような、暗闇に言葉が浮かんでいくような、そういうイメージを強く持ってたんですよ。
それを実現したいなと思った時に、色んなことをやったわけなんですけど…。セリフがああいう形になったのも、その1つですね。人と繋がりすぎてキャラクターとの関係性でしか言葉を語れない、言葉の意味がそのようにしか受け取れないというのは無しだなと。

キャラクターと繋がることによって意味や価値を生み出すっていうのは、映画のセリフのすごい大きな価値だと思うんです。でも逆にそれを切り離すことによって、別の言葉の価値を産み出せないかなっていうのがあったんですよ。
終盤真っ暗で登場人物の顔が見えないというのも、最初に言っていた人称性を剥ぎ取るようなことと通じてるし、やっぱり人の顔があると、言葉がそこに残るというか、人物から離れていかないっていうのがあって。
ああいう暗いところで会話していたのは、元々自分がああいう夜中の川辺みたいなところで人と話すのがすごい好きなんですよね。海とかもそうですけど。

なんかね、発した言葉が自分から離れて暗闇の中に浮かんでいって、世界に浸透していくような。なんかそういうイメージを持っていて、それをどうにかしようとした時にそういう風になったとも言えるし…。そういう感覚と、最初に言っていたお芝居の話と、色んなものが混ざり合って、ああいう表現にしようかなってなったのはありますね。

あとは、やっぱり映画全体として、とあるキャラクターと結びつかないことによって、逆にその一つひとつの言葉たちは自由になるというか。
別の意味でも捉えられるってことかな。観た人一人ひとりにどの人物のどの言葉が突き刺さるかわからないっていう。だけど、何か引っかかって持って帰れるものってあるんじゃないかなとか、そういうことを考えています。
例えば、小説とかを読んでいて、全然面白くなくてもあるセリフや言葉だけが凄く残っていることってあるじゃないですか。

チア部:ありますね。

北尾監督:なんかそういうのを目指しているというか…。そういう効果を出せないかなと思ってた。
それでああいうセリフになっていったっていう…。
そんな感じです。

チア部:あと、作中で音楽があまり使われていないなっていう印象がありました!

北尾監督:音楽はね、 元々あんまり必要無いなとは思っていたんですよ。
でも、なんか作っていく上で…、まあそれこそ編集してく上でかな。
撮影を終えた後、何か全体の印象をまとめる象徴的なものが欲しいなと思って…。
音楽無しで繋いだ時に、バラバラの印象があって、やっぱ象徴的なテーマというか、それを表すようなものが必要なんだなと思ったっていう感じなんです。だから元々は無くてもいいやぐらいに思ってたって感じですかね。

音楽と言うべきかどうかもわからない、あの途中で入ってくる音がまあ割と効果的というか…。映画全体の印象をまとめてくれたなっていうのはあります。

チア部:音楽はエンディングの時と一緒でしたよね?


北尾監督:はい。作中で4回流れるんですけど、全部同じ曲なんですよ。
流れる長さが違って、前半は途中で音が切れるっていう感じでやっています。でも、ああいう同じテーマ曲を使うのは多分ブレッソンの影響だと思うんですね。ロベール・ブレッソンっていうフランスの映画監督。

ブレッソンは1つのテーマ曲が繰り返し流れるみたいな、結構そういうやり方をしていて、彼の作品をよく観ていたから、これ以上のものが必要かって言われるとそうじゃないなって思ったっていうのがありますね。それで、あの1曲で回数もある程度制限してという風に考えたからかな。

チア部:結構、生活音が聞こえてくるイメージありました。車が走る音とか。

北尾監督:そうですね。全体的に音は結構特徴的だと思いますね。あれ、全部アフレコなんですよ。

チア部:え、そうなんですか?

北尾監督:そうなんです。足音も全部一つずつ貼り付けてます…。もう同業者からしたら変態扱いされてますけど。(笑)

チア部:まさか生活音などもアフレコだと思わなかったです…!セリフとかは、そうなのかなってちょっと思ってたんですけど。

北尾監督:そう。ちょっと違和感が出るぐらいを目指してやってるんですよね。それも元はと言えばさっき話した、安易なリアリティに対する抵抗みたいな。
同時録音って、やっぱりそれが大きいんで…。やっぱりリアルな場でやる芝居の雰囲気が出るというか。

まあそれはめちゃくちゃいいんですけど、僕の場合は違うな、と。
何作か前からアフレコの取り組みを始めて、やり出すともう全部の音のコントロールをしたくなるしね。そうすると、もうじゃあ全部!ってなるから。(笑)

それで、まぁアフレコやりだしたらはまっちゃったっていうのもあるけど、やっぱり映画ってスクリーンの中と外がある。音ってコントロールできるとフレームの中の音と外の音に差をつけられたりとか、できることがたくさんあるんですよね。で、これをやらないとその場でマイクに入ってくる音が全部同じやり方で入ってくるんで。
それだと色んな効果を出しづらいなと思ってます。もちろん、環境音とセリフのバランスの調整とかも難しくなりますし。

でも実は、これは僕の師匠の影響なんです。全く売れない実験映画作家の帯谷有理という方なんですけど。(笑)
その人が、アフレコの人なんですよね。音は作り変えたいっていう人で…。
まあその影響もあって、学生の時に
そういう薫陶を受けてたんですよね。それで自分でやるようにもなってという感じ。
そしてまさにブレッソンがそうなんですよね。ブレッソンの映画は全部アフレコでものすごく音の構築が美しいんですよ。
『抵抗』(1956)っていう映画があるんですけど…この勢いで話してて大丈夫ですか?(笑)

チア部:大丈夫ですよ!

北尾監督:『抵抗』の話をすると、第2次世界大戦時のフランスにあった収容所の話なんです。ドイツ兵にとらわれたフランス人将校が脱走を計画して、実際に脱走するまでの話を描いてるんです。

チア部:あ、観たことあります!

北尾監督:ありますか?まあ、題材としては、よくある戦時中の脱走モノなんですけど、その脱走するまでの間に色々と障害があるんですよ。ここを過ぎないと、ここをうまく超えないと脱走できない…っていうところがたくさんあるんです。

順番は忘れましたけど、歩きながら見回りをしている人がいて、その外側に車で巡回しているところがあって、あと貨物列車が通るところがあって、それでその外に一般の人が歩いているエリアがある。
それらの音が、牢屋の中にいる時に全部一緒になって聞こえるんですよ。それでいざ脱走する時に、その音のレイヤーを1つずつ超えていくんですよ。1つ超えると、見回りの歩いている音が消えて…みたいな感じで、どんどんその障壁となっていたものの音が消えていく…。主人公は自分を捉えていた壁と共に音の壁も越えて解放されていくという。これは、ものすごく感動的なんです。めちゃ面白いんですよ。

チア部:すごい…、着目点が。

北尾監督:いや〜、これはすごいんですよね。

チア部:なんかそう言われたらまた観てみたくなりました。確認してみたくなりました!

北尾監督:なりますよね!そういった映画を観ることによって、結構見方も養われた気もするし…、でも師匠のおかげもあって他の作家の方よりは、元々そういう部分に関心が強かったんだと思います。

チア部:今作は最初のほうセリフが無くて主人公の行動をずっと眺めながら、これから何をするんだろう、何が始まるんだろう…という気持ちで観ていました。

北尾監督:そうですよね。でも実際に撮っているとき、僕も分かんなかったんですよね。
台本を最後まで書いてないんですよ。ある部分まで書いてそこまで撮って、書いて撮って、書いて撮ってっていうやり方をしていたので。

さっき話したようなやりたいことがいくつかあったんですが、ただその自分がやりたい映画っていうのは、今まで観たことがないし、どうやったらいいか分からない。勿論やったこともないわけですよ。

元々の映画の成り立ちの話になるんですが、主演の石川理咲子さんと出会ったのがこの映画の始まりなんですよ。彼女はReeという名でダンサーやアーティストとして活動をしていて、でっかい紙に、トウシューズでくるくる回りながら絵を描いたりと変わったことをやってる人なんです。
たまたま別の現場で会ってお話したんですが、芝居やセリフの話と一緒で、僕がそのころ体の動きっていうものにもすごく疑問を持っていて。要は役者の感情だけ…とは言わないけど、そういうものたちを元に体を動かすっていうのにちょっと疑問があったんで、もうちょっと洗練された無駄のない動きにできないだろうか?って、そういう話をしたんですよ。

彼女は体を動かすことの専門家なので、その辺の話は結構盛り上がって、それで僕の方から「ちょっとなんかやってみませんか?」みたいな感じで声をかけたら、彼女も 「面白そうだからやってみましょう」ってなって。「じゃあ、とりあえず何ができるか分かんないから、1回ちょっとテストで撮ってみましょう」って。それで撮り始めたものだから、まだその頃は台本書いてないんですよ。
それで1回テスト撮影したものが、単純に良かった。お互い手応えがあったんで、「ちょっとこれ、なんか作れそうなんで書いてみますね」みたいな感じで始まったんですよ。

実際テストで撮ったシーンが、冒頭のシーンなんです。部屋を歩いているところの足元。テストの時に撮ってそのまま使っています。

その後、そこに足していく形で台本を書き始めたんです。手応えはあったんですけど、その当時に上手く言葉で説明できるようなものじゃなかったんで、続きを書いていって、人物と会うところのセリフを実際に書いてみたら、 「大丈夫なんこれ…」と思って。 (笑)

確かにやりたい事ではあるけど、どうなるか分からなかったんですよ。結局、それで何が撮れるのか、あのセリフを持っていってもお芝居は成立するのかとか、良いものが撮れるのかっていうのが分からなかったんで、ちょっと続きを書くのもおかしいなと。

「ちょっと1回、ここまででやらせてください」って石川さんと娼婦役の高橋恭子さんに声をかけて、とりあえずそこまでやってみようって言って。
全体構成をなんとなく作って。
大体4人ぐらいの人物がいて、「こういう人がいいかな」みたいなことだけなんとなく書いてみて、「終わりはどうなるかわかりません」という状態でやり始めた感じ。それで結局最初の会話のシーン、新宿で夜に女性と話すシーンを撮った時に、1回撮ったら最初はよく分からなかったんですよ。「これはなんだ…?」って思いましたね。

とりあえず続きを書いて、もう1回撮ってみようと思った。それで次も撮って…とやっているうちになんとなく分かってきた。
それを繰り返してという感じですね。なのでずっと完成した台本は無いままです。

チア部:そうだったんですね。

北尾監督:うん。書いて、撮影して、みたいなことが続いてあの完成形になったという感じだったんです。

チア部:なるほど。
ちなみに今回の撮影場所って、東京ですよね?

北尾監督:東京ですね。全部都内。

チア部:東京で撮ろうと思った理由って何かあるんですか?

北尾監督:1番の理由は自分が住んでいる場所だからですね。でも、やっぱり東京って、日本でいうと1番都会というか、人の集まる場所。作品の構成的に、街から川を経て、海沿いの湾岸地域を越えて、海に向かっていく話なんですけど、 東京はそのレイヤーが小さな中に結構しっかりあって…。大阪もそうだと思いますけどね。

街には沢山人がいて音も沢山あって、湾岸の工業地帯なんかにに行くと人も車も減っていって、最終的に海になるっていうレイヤーがはっきりしていて、そこを移動していくようなロードムービー的なイメージに近いです。
ある程度全体を構成してロケ地を決めてく間に、結構ロードムービーだなと思って。
電車とバスで移動するっていう所謂ロードムービーらしくないところはあるんですけど。(笑)そういう移動の過程を見ていくと、ロードムービーだなと。
でも、そういうものを目指していたのかもしれない。

でも結局東京で撮ろうと思ったのはまあやっぱり1番知っていたからかな。場所のイメージも湧くし。
「あそこで撮りたい」とかいうイメージももう既にあった。逆に言うと、その他の地域でやる価値が僕にとっては無かったって感じですかね。自分がいる、生活している町でやるっていうことの方が価値が大きい。

チア部:夜中のシーンが多かったんですけど、撮影していて大変じゃなかったですか?

北尾監督:いや…。

チア部:そうでもなかったですか?

北尾監督:はい。大変ではなかったですね。なんせ見ての通りですけど。暗いところは映らないと開き直ってたんで。照明焚いてないですから。
なので、街灯を探したぐらいですかね。(笑) いや、本当にさっき言ってたみたいな日常性をそぎ落とすみたいな話もあるんですけど、元々もう「暗いとこなんて映らないのが当たり前じゃないですか」と思っていたので。それを照明を当てて映すのも、まあ必要な時もあるんでしょうけど、少なくとも僕に関しては必要ないなと思っていて。

なので夜のシーンの場所選びも、どっちかっていうと大変だったってことはないかな。でも画全体のフレーミングというか、それができそうな場所が良かったんで、光と闇とその間が少しあるみたいな画面構成になるんですけど、それを作れる場所は結構探してた。
終盤の夜のシーンとかも、ドライブしながらいけそうな場所探して、「あ、ここいいな」と思いながら、リストアップして最終的にどこが良かったかなとか、どこが合うかなとか考えていった感じだったんで。

チア部:夜は何時ぐらいまで撮影されてたんですか?

北尾監督:日によりますけど、最後の海のシーン関しては朝まで撮影しましたね。海で夜が明けた後の朝のシーンを撮って、電車に乗って部屋へ帰ってラストまでのシーンを全部一通りやった。

チア部:そうなんですね。リアルに繋がってるんですね。

北尾監督:繋がってますね、実際の時間と。他の日も夜入って、夜の暗い時間に取り切るみたいなケースが多かったですね。だから、夜中撮影は結構やってた気がしますね。

チア部:明るくなるまでに、このシーンを撮らなきゃみたいなのなかったですか?

北尾監督:それはめっちゃありました!(笑)
何度も出ますけど、新宿で主人公と娼婦の女性が話すシーン。自分の中で「こうやればいい」っていうのがあまり分からなかったので、あの撮影は結構苦労しました。ぼんやりした手応えのままずっと悩んでいたからギリギリまでやってた印象ですね。

盲目のおじいさんと話すシーンは日暮れとの戦いでしたね。最後におじいさんと主人公が橋の上で喋る部分とかは絶妙な時間帯。あれ、ほんとにギリギリだったんです。

そうでしたね~。確かに言われてみれば、そういうギリギリなところはちょこちょこありましたね。

チア部:冬だと日が短いですもんね。

北尾監督:そうですね。どっちかっていうと、夜の撮影が大変だったというよりは、そういった時間との戦いが大変でした。(笑)

チア部:主人公の部屋に写真がたくさん貼ってあったと思うんですけど、あれは監督が撮られたものですか?

北尾監督:あれは全部僕ですね。

チア部:普段から写真とか撮られる感じですか?

北尾監督:うん、最近撮ってないなーとか思っちゃってますけど。カメラ好きなんで 結構撮ってます。でも割とスマホで撮ったものとかも混じってますよ。

チア部:そうなんですね。

北尾監督:はい。大半は古い小さなフィルムのカメラで撮ったものです。
昔から撮り留めていたものの中から、合いそうなものを選んだり、新しく撮ったものだったりします。
主人公が実際に行く場所の写真は、多分場所を決めてから撮ってるから、あの辺りは新しい写真だと思いますね。

チア部:そうなんですね。ありがとうございます。
次に、監督ご自身のことについてちょっと聞いていきたいなと思います。

プロフィールを拝見して、幼い頃からよく映画を観ていたとのことですが、どういったジャンルが好きでしたか?


北尾監督:やっぱね、子供の頃だったんで、普通にハリウッド映画ばっかり観てましたよね。
チア部:お父さんの影響とのことですよね?
北尾監督:親父の影響ですね。でも、かなり幅広く観ていたと思いますね。当時だからレンタルビデオで。
親父が週に何本か借りてきて、1週間で3本4本観るみたいな。で、夜は結構家族みんなで観てたのかな。
でも、全然子供向けのやつとかを用意してくれるわけじゃなくて、刺激強すぎるやつとかありましたけどね。面白いなと思って観ていたのは、本当に『ゴーストバスターズ』(1984)とかです。

チア部:なるほど。

北尾監督:でも、色々と観てましたね。もちろん『ランボー』(1982)とかも、『ターミネーター』(1984)とかもすごい大好きだったし。
それが、中学校に上がって、ちょっと変なのも観たいなってなるじゃないですか。要は、いわゆるハリウッド映画に飽きてくるというか。
その辺で、多分最初アメリカ映画のちょっと変わったところ、スタンリー・キューブリックとか。そういうのを観出して…。

音楽も好きだったんで、ジム・ジャームッシュとか観るようになって、あんまり当時同世代のみんなが観てないものを…って感じでした。
人が観てない映画とか、人と違うのが好きだったんでしょうけど、なんかそういうのを探っていくと色々出てくるじゃないですか。
レオス・カラックスとか、その辺もあの頃だったし…。
高校生になると、もっと色々と日本映画も観るになりましたね。ゴダールも高校生ですね。最初はさすがに意味わかんなかった。(笑)でもなんかもう変だから、うんうん面白い、みたいなのもあって…。

だから興味本位で色々観ていたのは子供の頃ですかね。で、そういうの観てたら何となく 中学校ぐらいかな、撮りたいなとかやってみたいなっていうのが出てきたって感じですかね。
その時から映画に関わる仕事をしたいって思ってました。映画にまつわる仕事を全然知らないから、「映画監督になりたい」っていうのは大人になってからよりはっきりしてたかもしれない。

チア部:なるほど。ありがとうございます。

今後どういった作品を撮りたいというイメージはありますか?

北尾監督:あー、すごい迷ってますね。実はすごい迷っていて。でも撮りたいものしか撮れないんでね。でも明確にこれ!みたいなのは正直ないですね。
なんか結局分からないものを作る作業が好きなんです。
今回の映画もそうですけど、その後にもう1本短編を撮ってるんですけど、全部分かっちゃうとなんか面白くなくなっちゃうらしくて。

今回の映画を作る前にもだいぶ映画を撮れない時期があったんですよ。

その時期って、企画や脚本を書いても、書ききった時に面白くないものに見えてしまって、それで撮るのをやめてしまっていたっていうのがあって…。まあ、逆に言うと、今回はそれとは違ったやり方をしてたから、最後まで作れたっていうのもあると思うんです。
だから、次の作品は今作のやり方にちょっと縛られながら撮るんだろうなと。

どれぐらい違うものが作れるか、違うものにしたいなと思うんですけど、そういったことをぼんやり考えてたりします。


チア部:先ほどの話でも監督の名前が何人か挙がっていたと思うんですけど、尊敬する憧れの監督はいますか?

北尾監督:あー、僕はもうロベール・ブレッソンですね。

チア部:決まっているんですね!

北尾監督:いや、もう多すぎて決めれないんですよ。なので、まあロベール・ブレッソンで。彼の作品で1本決めるなら『ラルジャン』(1983)です。これは決めてますね。


チア部:ありがとうございます。

では今の私たちぐらいの世代の学生たちに観てほしい映画とかありますか?


北尾監督:うーん。その人が観てる映画によって勧める映画も変わるからタイミングじゃないですかね。映画って、結構観たタイミングが良くないと、全然入ってこないんですよね。
僕も好きな映画って、なんかすごいタイミングが良かった映画だなって思ってて…。なので、多分観る人によってタイミングが良い映画があるだろうなと思う。

でも、挙げるとすれば青山真治さんとかね。誰が観ても面白いと思える作品を撮っているし観てほしいなと思う。あとは、相米慎二さんとか。
でも、特に日本映画の監督さんの作品を観てほしいなっていうのは結構思いますね。
なんか、「日本映画観ません」っていう人、結構多いみたいで。まあ、それがどうこうではないんですけど、日本映画観てほしいなと思います。

チア部:観てみます。私もどっちかというと、海外の作品のほうが観る頻度高いかもしれないです。

北尾監督:いや、多分僕も20代前半までって結構そうだった気がしてて。20代後半、30近くなってから日本映画の重要な作品に出会ってるんじゃないかと思います。
増村保造とかも結構後で見た感じがしますね。 やっぱヨーロッパの映画監督の方がかっこよさそうに感じちゃいますからね。そこはまあしょうがないなと思いつつ。(笑)


チア部:はい、ありがとうございます!

じゃあ、そろそろ終盤の質問にいきたいと思います。
今回の作品を通してお客さんに伝えたいことなどあればお願いします。


北尾監督:これは結構難しいですよね。結局一言にするのは難しいんですけど、解決しない問題たちを考えなくなるのは嫌だなと思ってて。でもまあ、そうなりがちな社会状況だと思うんですけど、解決できないであろう問題が大量にあって、つい思考することを諦めてしまっている回数は多い気がするんですよ。だから、「考えろ」って言うと、めっちゃ偉そうになるんで、その言い方はしたくないんですけど、 何かそういう自分の問題だったり、社会の問題だったり、それぞれのそういう棚に上げてしまった問題っていうものを、もう一度考えるきっかけになる言葉がこの映画の中にあるといいなって思っています。伝えたいことで言うと…それかな。

それがやっぱり僕にとっては映画の作り方であったりもするんですよね。
映画を作る上でも既に答えが出てるようなものが沢山あって、それでも納得のいかないものとかがあって、ただそんなものがそう簡単に変わるわけはなくて、映画の作り方とか映画における一般性の状況なんていうのもこの先多分そんなに変わらないんですよ。僕みたいな一般的なものから離れたやり方をする人間が何人も出てくるわけないんで。
でも考えなければいけないし、疑わなければいけない。

考えるのをやめてしまうと、そういう一般的なやり方から離れたものがなくなってしまうし、何より進歩は無い。社会問題もそれは同じだなと思っていて。そういった想いが映画全体を精神として、支柱として形作っていると思うんで、そういったものをどこかで持ち帰ってくれたらいいなっていう感じですかね。
複合的なテーマを持ったものとして、観た時に何かを感じてくれたらいいなって思います。

チア部:では最後にシネ・ヌーヴォで映画を観るお客さんにメッセージなどあればお願いします。

北尾監督:そうですね…。
自分でもこの作品を観ると難しいよねって思うんですよね。捉え方を選ぶのが難しい映画なので、ちょっとややこしいと思いますけど、なにかきっかけになる言葉だったり、感覚的なものだったりを持ち帰っていただける映画になるといいなと思ってます。

チア部:ありがとうございました!


『私はどこから来たのか、何者なのか、
どこへ行くのか、そしてあなたは…』

シネ・ヌーヴォで8/5 (土)〜公開予定!



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(上映日の2週間前から購入可能です。)


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