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好きなものを「好き」と言う自信がなかった

今でこそ、あれが好きだこれが好きだと自分の好きなものを公言しているが、それができなかった頃があった。自分のセンスに自信がなかったのだ。

このことでまず思い出すのが、好きな服のブランドの話である。女性という性別に生まれ、女子として生きていると、中学か高校くらいから、いつもどこで服を買っているのかという話題は避けて通れない。うっかり私服の高校に入ってしまったがために、毎日がオーディションであった。教室内で、ダサい子と、おしゃれな子を分けるオーディション。わたしが通っていたのは都立の進学校で、世間的に見ればそれほどおしゃれな高校でもないとは思うが、それでもなんとなくおしゃれな子とダサい子を分ける見えない線は存在した。その頃はだいたいみんな『non・no』を買っていて、『CUTiE』も読んでいると少し上級者。「ローリーズファーム」と「オリーブ・デ・オリーブ」が流行っていて、「ヒステリックグラマー」で買っているとおしゃれ偏差値は相当高い。いつも買い物に行くエリアのPARCOだったかなんだかに「ヒステリックグラマー」は入っていて、毎回入りはするけれど、何がいいのかもよくわからない上に高校生のお小遣いではあまりに高くて、すごすごと退散していた。

わたしがいつも買っていた雑誌といえば『花とゆめ』と『少年ガンガン』、あとたまに『マイバースデイ』。『CUTiE』のキュの字も知らなかった。『CUTiE』はなんだか難しそうだから、まずは『non・no』から始めよう。そう思って本屋へ行き、せめてものの抵抗で『non・no』によく似た『mina』を買ったのを覚えている。

こうしてファッション誌を読み始めたものの、応用力のないわたしにとって、着回しコーデ7日間は何も参考にならなかった。雑誌に載っているのとまったく同じ服を付録につけておくれよ。涼しい顔をしてジーンズスタイルをカッコよく着こなす田中美保も、甘い顔でヒラヒラした服に包まれる藤澤恵麻も、どちらも自分とは違う生き物にしか見えなかった。ただ少なくとも、その雑誌と似たような服を着ていれば、自信のない自分を晒さなくていいことはわかった。みんなとわたしは同じです。同じ雑誌を読んで、同じ店で服を買っています。同じだから、おかしなセンスではないです。何も間違ったことはしていません。同じ。同じ。同じ。

これは思い込みでも自意識過剰でも何でもなくて、その趣味はおかしい、みんなそんなもの買わない、ダサい、という目で見られる世界は確かに存在する。新卒で入ったのがこれまたうっかり女性ファッション誌をいくつも作っている出版社だったばかりに、そこもまた"そういう世界"だった。背中のタグを見て「え、ジルスチュアートなんて着てるの?ダッサ!」と言われた先輩がいたという。ジルスチュアートで買ったことはなかったことにホッとしつつも、わたしは別にジルスチュアートをダサいと思ったことがなかった。これは恥ずべきことなのか。研修でその部署へ行ったとき、「いつもどこで服買ってるの? いま着てるのはどこの?」と聞かれたときは肝が冷えた。「これはその……マルイで…」ともごもご言いかけたら、「へー、マルイとか行かないからなー」と流されて別の話題になった。

ライターの仕事を始めてからも、しばらくこの呪いは続いた。「今これが流行っているから紹介します!」「新しくこれが発売しました!」のような、わたし自身に「動機」のない記事はラクだ。言われたことを、事実だけを、ただ書けばいいから。けれど、「わたしだからこそ書く」という記事だと、好きなものを好きと言えないと、書けない。書けたとしても、それはわたしが書いたのです、と自信を持って言えない。何かを書くには、自分と向き合って、自分の好きなものを丸ごと見せる作業が必要だ。そのたびに、このセンスは「ダサく」ないのか。これを好きだと言うことは、「間違っていない」か?を振り払わなければならなかった。

自傷行為のように書き続けているうちに、いつのまにか呪いは消えていたっけ。今では、高校のときに無理してヒステリックグラマーに行かなくてよかったと思う。ヒステリックグラマーよりも、食玩のアクセサリーのほうが好きだし、そもそもわたしはファッションよりもゲームのほうが好きだ。今ならそう言える。

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