会話の難しさは異常

日曜だというのに仕事中です。
仕事の合間にちょこっと書いています。
会社にはいろんな人が来るのですが、今日、急な用事である人がいらっしゃいました。Mさんとしておきましょう。とてもお世話になっている方で、わたしは一度、受付係のKさんと連名で贈り物をしたことがあります。
ただ、何を選ぶかはKさんに任せきりだったのです。何を選んだのかは後で聞いてはいたのですがね。
さて、Mさんは今日来社すると、わたしに「ハンカチありがとうございます。使わせてもらってます」と言ってくれました。
わたしは何のことかわからず、「ああ、Kさんですね」と答えてしまいました。ハンカチってよくわからないけど、Kさんあたりがあげたんじゃないかな、と。
後で気がつきました。そういえばMさんに、Kさんとの連名でお渡しした贈り物がハンカチだったのです。
それが頭の中からすっかり抜けて、ちぐはぐな返答をしてしまいました。
Mさんはとてもいい人で、わたしはこの人には本当に嫌われたくないんです。恋してるっていうわけじゃないですけど。
たぶん、嫌われたくないという思いが強すぎて、会話していると緊張して、おかしなことになってしまうんじゃないですかね。
割と、Mさんと話すときはこんな調子が多いです。
それでもMさんはやっぱりいい人なので、今日は気にした様子を見せずに帰っていかれました。
しかし、「相変わらず話通じないな、この人」という印象を強くしていたんじゃないかと思うと、わたしはぐったりとしてしまいました。

みなさん、変なことを聞くかもしれませんが。
会話って、難しくないですか。
エスパーでない以上、相手の心は読めません。相手が何を考えているか、お互いわからない状態で話をするわけですよね。
相手がどんな発言をするか、わかりません。お互いにです。
するとわれわれは、予想を超越した発言の応酬をしているわけです。
しかも、相手の発言に対し、だいたい瞬時に返答しますよね。将棋のように長考して答えを出すなんてことはありませんよね。なんというアドリブ力!
こんなのを日常的にこなすなんて、それも一生続けていくなんて、考えてみれば驚異ですよ。

上記のようなことを話すと、「難しく考えすぎだ。だから緊張して会話ができなくなるんだ」と言われます。
いや、違うよ。因果関係が逆。
会話が苦手だから、難しく考えてしまうんだよ。

会話が苦手っていうのは、なかなか理解されません。
多くの人にとっては、できてあたりまえのことだからです。
ひとたび「会話が苦手です」などと言おうものなら、総攻撃がきますよ。「甘ったれだ」「努力不足だ」「そんなこともできないのか」などなど。
会話なんて誰もができてあたりまえ。それができないなんていう人がいるとは、想像つかないんでしょうね。
わたしは昔、営業の仕事をしていたことがあるのですが、やはり話すのが苦手で、もう仕事になりませんでした。先輩らのアドバイスも「もっとお客様と会話のキャッチボールをするんだ」とよく言われたものです。
アドバイスはここまで。具体的ではないですが、さすがに、いい大人になって、「それじゃ会話のキャッチボールはどのようにすればできるのか」などということを教えてはくれません。いくらなんでもそこまで頼れません。
具体的にどのようにキャッチボールするのか、それは自分で答えを見つけるしかないでしょう。ほかの人たちの仕事の様子を観察して、技を盗むという方法もあります。いろいろやり方はあったでしょうが、結果から言うと、わたしは答えを見つけられませんでした。
「ダメな奴だ」「努力していないだろう」とさんざん言われたし、自分でも自分を責め続けました。

その後、わたしは学習塾の講師をやりました。前からアルバイトでやっていたことはあるのですが、本格的に塾講師で食べていくことにしたわけです。
本当は、生徒とのコミュニケーションが大事なんですよ。でも、授業は講師が学習内容を一方的に伝えていても、なんか成立しているような感じになるのです。そしてわたしは、ある程度「おもしろく」(わかりやすく、ではない)伝える能力があり、生徒も笑うことが多いので、「楽しくていい授業」(のようなもの)ができていました。
一方的に、なら結構いけるんですね。それは会話じゃないですけどね。
その反面、講師どうしで話すとなると、わたしは急におとなしくなっていました。授業中とのギャップに驚かれました。

まあ、何だかんだ言っても、会話ができなきゃ人間として社会で生活していけません。わたしの会話も、かなり場数を踏みました。
現在では、営業をやっていたころより飛躍的に会話の技術が向上しましたよ。なにせ、1対1の会話なら、成立できるときはできるというレベルにはなりましたから。こりゃすごい進歩ですよ。人類に例えれば、アポロ11号月面着陸に匹敵するレベルです。
これが、3人での会話、4人での会話……となっていくと、しだいにわたしの存在は空気と同化していきます。
10人くらいだと、ほとんど気配が消えます。まるで忍術です。いらねえよ、こんな忍術。
わたしから見れば、会話を苦にしない普通の人々は、月面着陸どころか恒星間航行を取得したレベルです。ワープできるんですよ。光速だって超えます。
しかもわたしは、Mさんとの例のように、1対1ですらろくに会話できないということも、よくあります。
これから、どれほど努力すればワープ航法を身につけられるというのでしょうか。

会話が苦手っていう人、わたし以外にもそこそこいると思うんですよ。
2人でなら話せるけど3人以上でとなると話せなくなるという人。
よく行くラーメン屋で「毎度どうも」と言われたら、「顔を覚えられてしまった。もうこの店には来られない」と思っちゃう人。
客とのつながりや会話を重視して食券機を置かない某チェーン店について「行きづらい」と考える人。
今はこういう人がネットの世界で自分の思いを発信し、共感を得られる時代です。ちょっと前なら「そんなのじゃダメだ」と頭ごなしに握りつぶされていたところです。

わたしは、こういう、「みんなには当然のようにできることができない人」を小説に書きたいと思っています。
ただでさえ本人も苦しんでいるのに、多くの人からも理解されず、苦しみが二重になる、そんな人々です。
そういう人が主人公となった小説を、果たしてどれほどの人が読みたいか、という問題もありますが。
書きたいという動機に「おれはこんなに苦しんだんだぞ。かわいそうだろ」という気持ちがないとは言いません。そりゃあるさ。
ただ、それだけじゃないです。人を理解することの難しさ。特に自分や社会の常識から少し外れた人を理解するのは困難であるということ。
そこを乗り越えようとするところにドラマが生まれやしないでしょうかね。
また、自分たちが理解できないからといって「劣っている」とみなす人々の意識を打ち破りたい。あたりまえだと思われていることでも、みんなが思うほどにはあたりまえじゃないんだ、というところを示したい。
そんな思いもあります。
会話だけじゃない。わたしの場合は恋愛とか、運動とかもそうです。
こういうのをうまくエンターテイメントにできれば、と考えています。
そうすれば多少はオリジナリティーのある、わたしだから書けるというものになるんじゃないかと思っているところです。

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