バチェラーシーズン3 野原遥に感じるフィクション性

野原遥、ミスユニバース和歌山代表、自立した強く美しい女性像、これまでのバチェラーのなかで、1番戦いにきたっぽい人だったように感じた。

でも、見進めてるうちに、なんかこの人だけ妙にフィクション臭さ感じた。その理由をこの書き出し時点で未だ言語化出来てないけれど、考えてみたい。

1.フィクションの臭元

わからないのでとにかく気になるポイントを羅列してみたい。

①キャリア押しの割に、出ない仕事の話
②グアムの痛ましい事件のフィーチャーっぷり(フィーチャーする割に、乗り越えてこれた経緯話もないのが気になる。想像してってこと?)
③野原デート会は、特に顔面が映り込む絵面重視、バックハグ
④野原回、だいたいバチェラー泣く。理由は?

と、書いてみて気がついたことが2点ある。

2.「強さ」って言葉の一人歩き

野原とセットで語られる「強さ」というキーワード。たしかに、はじめから、野原ポーズ決めてくるし、スタイルいいし、メイク濃いし、見た目はかなり強い。変なことを言ったら論破されそうな感じさえする。

しかし、ホントに強い女性なのか?という点に置いて、バチェラーが「強さを感じましたね」というコメント以外に、視聴者が強さを感じるポイントは少なかったように感じる。

個人的な考えではあるが、「強さ」というものを感じるためには、ⅰ)困難 ⅱ)乗り越えた経験という2つの要素が必要不可欠のように思っている。これは全就活経験者、転職経験者が分かると思うけれど、具体的な乗り越えエピソードはその人のパーソナリティを示すためには必要不可欠なのだ。

その点、野原は、グアムやバリバリのキャリアウーマンという、ⅰ)困難 的な要素は散見されるが、ⅱ)乗り越えた経験 というストーリー説明が希薄であった。

なので、面接者ではないが、強い女性というのも眉唾のように感じてしまった。ここは番組側の落ち度だと思う。

2.野原タイム

野原タイムと勝手に読んでるが、野原が出てくるシーンは野原の顔面が強調される。他の人が夕陽と二人の抱き合う姿や握り合う手のクローズアップなど、情緒的なシーンが多いのに、野原タイムは絶対に顔。ハグだってバックハグ。なにか正面から向き合わせることを避けてるような。

またこの人のターンだけ、バチェラーが泣く。これがずっと不思議なのだ。心理的な距離で言うと、バチェラー兄が指摘してるように、他の人と比べたら一つ遠いはずなのである。

それにも関わらず、泣く。

そもそも「野原の魅力はギャップである」と公言しているが、それは「怖い、強いと思っていた人が、意外と怖くなかった〜」というギャップによって増幅された安心感に過ぎないのでは?正面から向き合うカットがないのも、キチンと生きている野原さんを恐れているのではないかと深読みしてしまう。

ともかく、野原に対するバチェラーのコメントには、常に「?」がつきまとう。

3.じゃあ、野原とは何なのか

テレビ的な、対立構図要員なのではと思っている。岩間1強の中で、テレビが用意したミスリード要員。番組の中盤(グアム)から藤森が、岩間と野原の2強と表現していたが、それは無理がないかと。

グアムで確かに野原は目立った。一対一デートからのグアム事件について、それを忘れさせる為にのスカイダイビング。でも、絵面は派手だったけど、心理的な距離が縮まるようなイベントではなかったと思う。傷ついていたから、慰めてあげた程度の、高田汐見にしてあげたことと同じであろうと。

ドライブシネマのくだりもそうで、セットすごいし、映像もわざわざ作ったのかなと思ったけど、この人そんなに距離縮めてないはずじゃない?映画好きというキャラ立ちしてるならともかく、脈絡もなく映画ってのが、ずっと腑に落ちない。しかも、冒頭のコメントが「一番最初に会ったよね、だから」って、それは運の問題でしょと。

とにかく、野原遥という存在は番組内で「強い理想の女性」と記号的にしか扱われていない気がする。それが最後の方までいることに、番組的な眉唾を感じるのである。

さて、その点で、完璧な女性という記号を与えられずも、地味に完璧であったシーズン2小口に関して考えたい。あれはかなりミステリーじみた人であった。

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