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せんぱいのこと #社会人百合

(前回 「ふじうのこと」)


 緑間(みどりま)先輩は小柄で、ふんわりとしたボブカットの26歳だ。並んで立つと、私の鎖骨のあたりにうなじがあるのがとてもかわいい。けど、その内面は外見とかなり異なる。上司であろうと食って掛かり、同僚が手柄を横取りしようものなら知略の限りを尽くして蹴落とす。正直、手の付けられない先輩だと思うこともしばしばある。
 でも、私はそんな先輩が大好きだ。
 先輩の全部が好きだ。
 小さいところも、かわいい顔立ちをしていることも、怒ると手のつけられないところも、セックスのときにとても良い声で鳴くところも。
 そんな彼女と、つい最近セフレから恋人にランクアップ(?)できた。しつこいくらいに交際を迫ってきたぶんだけ、喜びもひとしおだった。浮かれた私は、仕事でもプライベートでももっともっと褒められたくて、より期待に応えようとしてしまう。
 より恋人らしく、よりできる後輩らしく。
 こんな私を、先輩は褒めてくれる。
 恥ずかしがりながら、大好きだって言ってくれる。

 ……しかし、悲劇はふいをついて降りかかる。

  

  *


「先輩、おはようございます」
「ああ藤生、おはよ……ちょっと、朝から……」
「誰も見てませんよ……ん?」

 朝、出社したての緑間先輩を人気のない廊下で抱きしめると知らないにおいがした。

 いつものにおいにまざって、わずかに薔薇の香りがした。 

……え、なに、浮気? 付き合い立てなのに、どういうこと? 会社でも、先輩の部屋でも、デート中でも……ほかの女の気配なんて感じたことがなかったのに。しかも、こんな早朝から浮気?……もしかして、ホテルから直接出社? どういうこと?

 落ち着け。冷静にいこう。
 私、藤間玲はクールを売りにしている(主に先輩の前で)。

 よくあるパターンその1。
 ご姉妹がいらして、泊っていった。
 
 ……前に、一人っ子って言ってたな。

 よくあるパターンその2。
 満員電車で、近くにいた人のにおいが移ってしまった。
 
 ……ありそうだけど、わざわざ始発駅まで下ってから特急電車に乗るタイプのひとだ。己の座席を確保したいがために、そこまでやるのだ。

 よくあるパターンその3。
 シャンプー変えた。

 ……いやいや、一昨日泊まりに行ったときには、まだボトルのなか結構あったな……。

「あーもうわかんないー」
 ぼそりとこぼすと、
「藤間?」
「はい、どうしました先輩」

 向かいのデスクに座る緑間先輩が、PCのディスプレイ脇から顔を覗かせる。狼狽や憶測を喉奥に引っ込めて、私はいつもの涼しい笑顔を貼り付ける。

「頼んでた資料、みせて」
「できてますよ。ご確認お願いします」
「ごめんね、休日だったのに」
「いいんですよ。暇でしたから」

 昨日は先週休日出社したぶんの休みを会社から貰っていたのだけど、平日に家で時間を潰す方法がわからずに、結局仕事をしてしまった。先輩に頼まれた資料の作成を完璧に仕上げると、何度も読み返しては頬を緩めた。褒めて貰える自信があった。先輩のための一仕事を終えて嗜むたばこの味は格別だった。我慢できなくて、寝る前につい〈資料できましたよ〉とメッセージを送ってしまった。結果的に褒められたけど、〈休みの日はちゃんと休め〉とちょっと怒られもした。

「でも、締め切りずっと先だったよね」
「先輩の頼みなら、いつでもどこでも」
「ありがと。私もその熱心さを見習わないとね」
「私のこれは、先輩を真似してるだけですよ」
「お世辞がうまくなったわね」
「……はは」

 会話の終わりは、渇いた笑いになってしまった。
 先輩の顔がディスプレイの向こうに隠れたのをみて、はあっと息を吐き出す。今もまだ、残っている……どうしてもあの薔薇のにおいが鼻から消えてくれない。



  *



 その日の午後、いつも通り社員食堂で遅めの昼食を摂っているときのこと。先輩は麻婆茄子定食ごはん大盛(!)、私はアジフライ定食サラダ多めを頼んで席についた。


「「いただきます」」

 そろって箸を手に取る。声が重なるのが嬉しい。先輩の家で私のつくったごはんをたべるときも、デート中にレストランに入ったときも、今とおなじ「いただきます」だ。それだけは、職場でも変わらない。

 ……でも、肝心の味が全然わからない。あのにおいは、誰のにおいなのだろう。そんなことばかりが気になって、仕事に対しても集中が欠ける。

 いっそのこと聞いてしまおうか。方法ならいくらでもある。
 考える前に、実行。
 先輩ならそう言うだろう。

「なんか今日の先輩、いいにおいしますね」

 ……いやいや。だめだ。こんなこと聞いても、先輩のことだから「パン屋さん寄ってきたからかな」とか見当外れなこと言うにきまってる。

「そう? なんだろ、パン屋さんかな」
「ほらぁ」
「は? なによ?」
「寄ってきたんですか、いつものベーカリー?」
「ううん、朝はいつもの喫茶店にいたの。パン屋さんが同じ店舗のなかにあったから、そのにおいじゃないかな」

 いちいちパン屋「さん」って言うの可愛いな……あー抱きたい……。
 こんな疑念すぐに打ち捨てて、先輩のこと抱きしめたい……。

「先輩って休みの日って何してるんですか」

 浮気なんて疑いたくない……疑いたくはないけど、私たちはもともとセフレで始まった関係だ。先輩が、私以外にセフレを持っていたとしてもおかしくない。そういった関係は、急にはいおしまい、ともしづらいだろう。特に、向こうが求めてくる場合は……いや、疑いたくは、ない、のだけれど。
 
「休みの日? あなたと一緒にいるけど」
「まーそうなんですけどー」
「あ、でも」
「なんです?」

  意気込んで身を乗り出したばっかりに、椅子から滑り落ちそうになった。

「藤生と、その、付き合う……前は」

 やや小声だ。
 私の喉元を、固い唾が通り過ぎていく。

「カフェとか行ってたりは、したかも」
「なんです、それ」
「どうしたの」
「誰ですか」
「誰って……」
「そのカフェで、誰と会ってたんですか」
「言いたくない」
「…………っ」

 私の愕然とした気持ちが伝わったのか、先輩は目線を反らした。

「先輩……やっぱり」

 椅子に体が溶けていくかと思うほどに、脱力する。私は気まずそうに口元をナプキンで隠す緑間先輩から目が離せない。
 やっぱり、そうだったんだ。
 先輩は……私以外のひとと……誰か知らないタチに、その体を預けて……。
 気持ちが揺れ動いて、口が勝手に動き出す。 

「変だと思ってたんですよ。先輩みたいなかわいいひと、いじめたいひとなんて私だけじゃないですもん。出会い系でさくっと出会えますもんね。じゃあもうやめてくださいよ、私がいるじゃないですか。そのひとのことまだなにか思い入れでもあるんですか。そうですよね、私とも、もともとは……」
「藤生、声おさえて」
「誰なんですか、教えてくださいよ。そのにおい……」
「ちょっときて」

 食膳を持って先輩が立ちあがる。私もそれに倣う。食堂を出ると、先輩の足は外へ向かった。秋口の涼しい風が、まだ少しぬるい空気をかき混ぜていく。並木通りを抜け、小さな喫茶店の前を通り過ぎると、道を折れて路地に入った。大通りから遠ざかっていくと、喧噪が去って静けさの輪郭が際立った。

「ここ」

 先輩が急に立ち止まる。その視線は、雑居ビルの看板に向けられていた。

「ここ……?」
「わかるでしょ。ここにネコがいるのよ」
「ネコはあなたでしょう! 捜してるのはタチでしょ!?」 
「ばか声が大きい!」

 口元をふさがれる。急に顔が接近してまたあの薔薇の香りが鼻先をかすめる。涙が出そうだ。もうクールなお面なんでかぶっていられない。私の先輩がどこかへ行ってしまう……私の大好きな先輩が……。

「先輩ぃ……」
「なによ……ってなんで泣きそうになってるのよ」
「私のテクが足りないばっかりに、浮気なんて……それともそういうの、オープンな関係でいたいんですか。私、藤生玲は、できるかぎり期待に応える女ですから……いいですよ……私もほかの女のひと探してきます」
「はあ? なに意味わかんないこと言ってんのよ」
「だって、ここに浮気相手が……ああ、違う……セフレがいるんですよね。私で満たせない分を、ここで……」
「どこからそうなったのよ」

 はあ、と深いため息をついて、先輩は私の手をとった。骨ばって、ちょっと皮膚が乾燥している。仕事ひとすじの、大好きな手だ。

「きて」
「え、待ってください、心の準備が……」

  雑居ビルの入り口から続く階段を昇っていく。薄暗く狭い階段は、踊り場というものがなくて、ほとんど垂直に上っているような加減だった。脚の筋肉が悲鳴を上げ始めたが、あくまでも弱音は吐かずについていく。
 
「ここ、ほら見て」
「うぅ……ん?」

 たどり着いた階の扉には「猫カフェ」の看板が下がっていた。「扉はゆっくり開けてください! 猫ちゃんが外に出てしまいます!」との文言も。

「ネコって……?」
「ネコよ」
「ベッド上での関係じゃなくて?」
「どあほ」

 おでこをぺちりとはたかれた。俯いていた顔を上げると、先輩は困ったように笑っていた。

「こういうこと。わかった? 昨日、仕事終わるのも遅かったし、藤生と会えないからここの猫カフェに来たのよ」
「え、じゃあ、浮気は?」
「……ひとりで空回ってる藤生を見るの、楽しかったな」

 先輩は頬をいたずらっぽく歪ませた。
 私はまた、脱力して壁にもたれかかってしまう。

「相変わらず底意地が悪いですね……」
「なんだって?」
「なんでもないです。ていうかもしかして、あのにおいって、猫の?」
「たぶん、消毒液かな。ここ、薔薇の香りつきのがあるからスーツについていたんだと思う」
「……もっと早く言ってくださいよ」
「あはは、ごめん。でも、私が猫カフェ好きなんていったら、変でしょ」
「そんなことないです。だって、ベッドの上では」
「それやめろ」

 割と強めにおでこを叩かれた。



  *



 薄暗い階段を降りるとき、「ん」と手を差し伸べてくれた。昨日も今日も、ずっと手を握るのを我慢していたから、一階に降りるまでを短く感じた。途中で立ち止まって、先輩が振り返ったところで、キスをした。また怒られるだろうかと思ったけど、すぐに熱い唇が返ってきた。強い力で押し付け合うと、唾液が顎までつたって、それが胸元に垂れていくのが私の感情を昂らせた。私は指をほどき、先輩のシャツのボタンに絡める。

「だめだって」
「我慢できませんよ、もう」
「夜まで待って」

 体が離れる。かわいくウェーブした髪の先が揺れて、薄闇の中で首筋を見え隠れさせる。

「準備、しておいたから」
「ごはんですか」
「ごはんと、ベッドと」

 視線の先で、その丸い指先が下腹部へと這う。
 先輩の表情が淫らに溶けていく。

「夜、頑張ってね」
「……はい」 

 ぼうっとする頭で、ことばを咀嚼できないままに、頷いた。
 午後も、仕事には集中できそうにない。

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「………藤生」
「なんですか」
「昼間のあなた、かわいかった」

 清潔なシーツの上で先輩は言った。ベッドの上にスーツを脱ぎ捨て、薄明りの下で裸体を毛布に隠している。締まるところは締まっているけれど、決してひとに見せるために作っている体ではない。毎朝仕事のために起き、翌日の仕事のために休ませるだけの体。ところどころ肉の余りはあるが、それがまた愛おしかった。これから先輩を抱くのだと……職場であれだけ強気に檄を飛ばす先輩を犯すのだと思うと、胸の奥が苦しいくらいに締め付けられる。

「やめてくださいよ……その話はもういいです」
「私の為に」

  ぽつり、と先輩は言った。

「あんなに真面目でクールな藤生が、私の為に焦ったり、泣いたりしているのが、すっごく嬉しかった。ごめん、いじわるだったかな」
「先輩、それ……誘ってますよね」
「え、ちが……」
「かわいすぎますよ」

 シーツに膝を載せ、身を強張らせる先輩に迫る。

「それに。いじわるな先輩は、お仕置きしなきゃ、ですよね」

  先輩の瞳が、乱れた髪の間から覗く。そこに込められた期待の色に、私はまた昂りを感じた。

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