白雪姫VS人魚姫

「人魚の肉を食べれば、不死身になるのでしょう」

  岩場の影で尾びれを休ませているとき、そんな声が聴こえた。振り返ると、岩礁のうえに白百合のように美しい女が立っていた。 

 ふわふわとしたドレス。
 紅のさされたやわらかそうな頬。
 愛らしい髪留め。
 右手に握られた手斧。
 手斧……? 
 どうしてそんなものが、美しい人の手中にあるんだ。

「人魚さん、御覚悟」
「おうぅええあぶねえ!」

 手斧を投げつけられた。すんでのところで避けたが、刃は尾びれの近くの砂に落ちた。両手とひれでじたばたともがく。やっぱり丘は恐ろしい。人間なんて、関わり合いになるべきじゃなかった。

「待てやごらぁ!」
「お助け!」

 悲鳴を上げながら海へ飛び込もうとすると、ヒールで尾びれの先端を踏みつけられ、岩の上に固定されてしまった。

「命だけは! 命だけはご勘弁を!」
「あなたよね、王子様を誑かしたのは……どこの国のお姫様が手を出したのかと思えば、まさかこんな半人半魚だったとは」
「ごめんなさい、出過ぎた真似でした、すみません! もう身分違いの恋なんてしません」
「あなたがしないと言っても、王子様はもうぞっこんなのよ」

 美しい人が手斧を砂から持ち上げると、さらさらと細やかな音がした。まるで消えゆく私の命のように儚い音だった。

「で、でも、私、船から落ちて漂流していたあの人を助けましたし……」
「ふうん。あっそう、ふーん」
「な、なんですか」
「証拠はあがってんだよてめえ干物にされてえのか!」
「ひぃいい」

 その人はどこからかひと巻の書物を取り出すと、そこに記されたことを丁寧に読み上げて言った。

「曰く、××年××の月××の日……穏やかな大洋へ漕ぎ出したとき、船に揺れが起こる。雲は認められず、帆には風もない。波は荒れておらず、船員は大慌てで水底を見つめた。そこに、恐ろしい形相をした人魚がおり、船を沈める歌を唄っていた……これどうみてもあんたじゃねえか!」
「ひぃいいいいごめんなさい出来心でしたごめんなさい」
「大丈夫よ」

 ふいに微笑みをみせ、その人はゆっくりと言った。

「あなたを殺して、あなたの肉を頂くから」
「ああ……もはやここまで」

 私は隠し持っていた小瓶を取り出すと、蓋をこじあけて一気に飲み干した。

「なにを」

 いぶかし気に私を見つめる。そこに隙が生まれた。私は、〈両脚でしっかりと立って〉砂浜を〈駆け出した〉。

「あ、なんで!」
「海の魔女に、人間になれる薬をもらったのよ! あはははは! ざまあみろ、追いつけるものなら追いついてみろ!」

 ああ、素晴らしい! 足があるっていうのは、なんて快適なことだろう! 手斧を持った頭のおかしい女からこうも素早く逃走できるなんて!

「あははははは! あははぶ」

 慣れないことはするもんじゃない。私は顔面からすっ転んだ。砂に足を取られてうまく立ち上がれない。

「こっちのほうが長く人間やってんのよ……追いつけないわけないでしょ」

 気配がする。砂を踏みしめる音。
 奴が、すぐそこまで来ている。
 振り返らずに、待つ。

「なんなのよ、あんた!」逆切れ作戦。「私はね、あの磯臭い海の中で、今まで辛抱して生きてきたのよ! 潜ってごらんなさいよ、右みても左みても、気色悪いぶよぶよした生き物しかいないのよ! 恋に憧れることが、そんなに悪いことなの? こんないたいけな少女が、乙女が、純真な心を誰かに向けることって、殺されるほど悪いことなの?」
「あんた王子様殺そうとしただろ」
「そらそうだけどさ!」

 立ち上がろうと膝をつく。関節が多すぎる。こんな薄気味悪い体でよく生きられるものだ。

「いいじゃん、みんな恋愛なんて奇蹟のふりして裏であくどいことやるじゃん、蹴落とし合いじゃん! 私だって人並みの恋したいじゃん!」

 などと適当なことを並べて、時間を稼ぎつつ、私は頭のなかで逃走の案を練る。奴は右手に斧を持っていた。ということは、右脇を通り過ぎるのがベター。むしろこのまま一振りさせて、その隙に押し倒して頸動脈を噛み千切ってやるのも悪くない。やめろ、まだ笑うな……身体能力では、野生で生きてきた私のほうが上の筈だ……。

「私だって、玉の輿狙いたいんだよ!」

 振り向きざまに、駄目押しで吠える。
 そのまま小娘のほうへダッシュ――小娘と対峙する。

「……はあ?」

 素っ頓狂な声が出る。
 女の両手に、散弾銃が握られていた。

「死ね」
「どこから持ってきたんだよ、それ!」
「だてに一国の姫やってねえんだわ!」

 炸裂音が砂浜に響いた。世界が遠のいていく。強烈な衝撃が内臓を貫き、そのまま私は後方へぶっ飛んだ。砂の上に倒れる。空が青い。お腹に触ると、きれいな円い穴がぽっかりと空いていた。

「ああ……こんなところで……」
「ごめんなさいね」

 青空を背景に、女の顔が映りこむ。

「悪く思わないで……って、死ぬからなんて思ってくれてもいいや。あはははは! ご愁傷様!」
「死ね……」
「残念。私はこれから、あなたの肉を食べるの」

 それは本当に実行された。私の内臓を口に含むと、その白い口元に真っ赤な線がひとつ引かれた。咀嚼し、呑み下す。一切れ食べれば十分であるはずなのに、その手が止まらない。女はさきほどよりも美しさを増していくようだった。

「はあ、ごちそうさま」
「……どうして」
「どうして、あなたを食べるのか? 私、これから殺されるのよ。よくわかんない女が、老婆のふりをして林檎を届けに来るの。それをかじって、私はこの世からおさらばってわけ。でも、その計画を私の忠実なしもべである、働き者の小人さんたちが教えてくれた。だからこうして先に不死身になっておけば、あとでその女を出し抜けるでしょう?」
「……頭、いいね」
「でしょ? しかも、もっといいことには、王子様のキスがないと目覚められないっていう設定にしておくの。どう? 王子様、来ざるを得ないでしょう」
「……ふ」
「……なによ」

 女は不審げに眉をひそめた。

「ふふ、ふふふ、ふふははは、はは、は、あははははは!」
「き、きもちわる」
「あなた、間違ってるわ」
「なによ」
「私をちゃんと、殺さなかったこと、後悔するといいわ」
「なにを……あ」

 気づいたときにはもう遅い。どうして人魚の肉が不死身の力を持つのか。それは人魚が他の生物へ危害を加えられないことにも由来する。人魚と言えば、海の生き物と仲良く暮らしているというイメージが強いし、他の生き物もそう思い込んでいる。だからこそ半人半魚という中途半端でよわよわな存在でも海の中で暮らしていける。では、海中で餌をとれない私たちはなにを食べるのか? 主に人肉である。舟を沈めて、そこから餌を取る。しかしそれができない場合も多々ある。そのためのストックとして、人魚は己の肉に不死性を帯びるほどの栄養を持たせるのだ。飢饉のときでも、自分の肉を食べればとりあえずは生き延びることができる。

「いただきます」

 己の風穴に手を突っ込むと、肉を削ぎ取って口に運んだ。まずい。磯臭い。血の味しかしない。けれど贅沢は言っていられない。内臓を、血管を、血を、肉を、脂肪を、喉の奥に流し込む……そうするうちに痛みが生まれ、それは生きている実感に繋がった。大きな肉のひと固まりを飲み込んだあとでお腹に触れると、もうそこに傷はなかった。

「な、なんて化け物……」
「だてに人魚やってねえんだわ!」

 立ち上がって、今度こそ女の頸動脈を狙う

「……死にぞこないが」

 ――冷たい銃口が私に向けられる。
 私たちの戦いは夜を徹して続いた。どちらも不死身なので、結局勝敗は分からずじまいになってしまった。砂浜の上に寝転がり、私たちは荒い息を整えながらにらみあった。

「あなた、なかなかやるわね」
「あんたも……ただの女じゃないな」
「私、白雪姫。あなたは?」
「私は人魚姫」
「なあんだ、同じ姫じゃない……気に入ったわ。あなた、いっしょに私についてこない? どうせもう海には戻れないんでしょう」
「どこに行くのさ」
「城よ。まずは、私を殺そうとするあの糞女をぶっ殺す。まどろっこしいことなんてしてられないわ。その上で、軍隊を手中に収める。不死身の奇蹟でも見せれば神様扱いでしょ」
「そううまくいくかなあ」
「大丈夫よ、大丈夫。王子さまはあんたにあげるから」
「え、いいの?」
「私はね、この国そのものが欲しいの。いえ、もっと大きなもの、この海、この大陸、この世界そのものを手に入れるまで死ねない……ああ、もう不死身だった」

 起き上がって、握手をした。
 なんだかよくわからないが、退屈はしなさそうだった。
 ちょうど朝陽が水平線の向こうから現れて、私たちを影絵のように照らした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?