ふじうのこと #大人百合

 藤生の背中には、背骨をなぞるように裂傷の跡がある。白くて艶やかに膨らんだそれは、蛹の羽化を連想させた。行為のあと、豆電球の照らす下で橙色に染まったその傷をなぞると、新しい皮膚の柔らかさが指にまとわりついてきた。細く平板な背中に走る縫い跡と傷跡。それが、絶頂を迎えたあとの見慣れた景色だった。

「緑間先輩……今、背中に触りましたか?」

 丁寧な口調でそういって、ベッドの端に腰かけた藤生は肩越しに振り返る。まだ余裕が戻らないのか、深い呼吸をゆっくりと繰り返していた。ジッポのライターと細い紙たばこをそれぞれ両手に持っている。ライターをサイドテーブルに置くと、私の前髪を優しく撫でた。会社でこんなことをやられたらすぐに蹴飛ばすのにな、と思う。どうして夜は、こいつに主導権を握られてしまうのだろう。

「触られるの、嫌だった?」
「いえ、違うんです。そこ、皮膚の神経が切れてるから、触られてもあんまりわかんなくて……でもちょっとくすぐったいかも」

 藤生は指を私の顎の方へと滑らせる。

「まあ、そこに触ったのは、緑間先輩が初めてですけどね」

 恥じらうように笑うそのひとの横顔に、窓外の灯りが白銀色に反射していた。

「別に、嬉しくないわ。あなたと私は、ただのセフレだもの」

 私は傷跡から指を離す。

「それに、そんなの本当かわからないし」
「本当ですよ。私、緑間先輩にカミングアウトしてもらうまで、誰ともこういうことしてませんでしたから」
「ふうん」

 気のないふうを装って、サイドテーブルに置いたコーラのグラスを手に取る。氷はすっかり解けきっていて、口に含むと水っぽい味がした。けれど、乾ききった体にはそれがちょうどよかった。

「ていうか、早くたばこ吸いなよ」
「ああ、はい……えっと」

 藤生はたばこを手のなかでくるくるともてあそびはじめた。

「でも、吸ったら、もうだめですよね?」
「うん、もうセックスしない。たばこ臭いの、嫌いだから」
「あはは……ですよね」

 藤生とセフレの契約を結んだときに決めたこと。

  会社のみんなにはないしょ。
  恋人らしいことを要求しない。
  セックスの前は、たばこを吸わない。
 
「でも、吸うんでしょ?」

 と意地悪く尋ねると、

「一日中我慢してましたからね」

 深いためいきをついて、藤生はたばこを口にくわえた。薄暗い部屋のなかで、まるで星粒のように火がぽつりと燈る。灰皿と口元を行き来するときに、すぅっと流れる淡い閃光を見ているのが、私は好きだった。

「おいしい?」
「ええ、そうですね……先輩にとっての、仕事終わりのビールみたいなものですかね」
「へえ、私とセックスするのは仕事なんだ」
「ああ……待ってください。今のは、ナシです……えっと、えっと……」

 藤生はたばこを持ったまま手の甲を髪の生え際に押し付けて、しばらく唸った。仕事ではいつも抜けのない後輩なだけ、こういうときにポカするのを見ると、少しかわいく思える。コーラのグラスをサイドテーブルに戻すと、同じ手で藤生の脇腹をそっと撫でた。

「また明日、職場で」

 別れ際、そういって立ち去るとき、藤生は靴の左右を間違えて転びかけた。その体を支えながらわたしはいう。

「大丈夫? 部屋に入るとき、慌てて脱ぎ散らかしたでしょう」
「だって、一秒でも早く緑間先輩を抱きたかったから……」

 その続きを遮るように、ジャケットを彼女の腕のなかに放り投げた。何が嬉しいのか、笑いながら袖を通すと、藤生は私の背中に両腕を回し、眉のあいだにキスをした。

「あのさ……藤生」

 私はおでこにふれて俯く。顔が熱い。

「……そういうの、無しって話じゃなかったけ」
「そういうのって、なんですか」
「別れ際のキスとか、恋人っぽいっていうか……」
「そうでしたっけ? 恋人らしいことは要求しちゃだめ、とはいわれましたけど……恋人らしいことをしちゃだめ、とはいわれてませんよ」

 とぼけたように目を細める彼女に、私はゆっくりという。

「なんていうか、戻れなくなる、から」
「それって、どういうことですか」

 目から笑みが消える。藤生は、いつになく真剣な表情で私に向き合った。

「先輩も……恋人っぽいこと、してほしいと思うことがあるんですね?」
「……ほら、そうなるじゃない。違う、違うわよ」
「本当ですか?」

 彼女の知的に整った顔立ちが近づいてくる。男性的とも、女性的ともとれる中性的な細面は、顎先に向かって鋭く狭まる。その顎が私の鎖骨にあたって、やけにくすぐったかったのを、まだ肌が覚えている。

「緑間先輩……私、いつでもいいんですよ」
「……なにが?」
「こういうお試し期間みたいなの、もうやめませんか。大学生じゃないんですから」

 藤生は、いつも職場でコーヒーカップを持つ方の手で、さっき私を虐めた。
 それと逆の手のひらが、私の胸元へ差し出された。

「私と、恋人になりませんか」 

 職場での藤生は、腹が立つくらいに仕事がよくできる。
 入社三年目ということを自負しているためか、決して前には出過ぎない。かわりに、私たち先輩の進めていく仕事の穴を手際よく埋めていってくれる。

「自分の好きな仕事をしたいって思わない? ふつう」

 職場近くのお店でランチを摂ったときのことだった。
 午後の会議の戦略をあらかた練ったあと、かねてから気になっていたことを訊ねた。藤生は上品な仕草でコーヒーカップに口をつけると、うっすらと微笑みを浮かべて答えた。

「人の下で働くのが、性に合っているんです。使うよりも、使われるほうがよくて」
「そういうもの? 私は、はやく昇進してやろうとしか思ってないけどね」
「緑間先輩は、そうでしょうね。手も口も早いですから……だから、上から目をつけられるんですよ。今日も嫌味いわれてませんでした?」

 勝気な私の性格を知ってか、ときどきそのことをからかって笑う。

「いいのよ。ていうかあなた、まだ食べ終わらないの?」
「緑間先輩、もう食べ終わったんですか……早すぎますよ」
「藤生がゆっくりすぎるのよ。そのパン、いらないなら頂戴?」
「あはは……。子供みたいだ」
「ああもう……ワインでも頼もうかしら」
「これから会議ですよね?」

 なかばあきらめたような口調で藤生はいう。

「少しくらい、顔にも出ないし構わないわよ。ばれないばれない。飲む?」
「……ちょっとだけなら、つきあいますよ」
「従順でよろしい」

 景気づけの一杯を終えると、藤生は「あーほんとに飲んじゃったー昼間なのにー」と頬を桃色に染めた。こいつ酔うとかわいいかもな、と思った。

「ねえ、緑間先輩……さっきの話ですけど」

 会計を終え、職場へと帰る途で、思い出したように彼女はいった。

「私は、期待されるままに動くのが好きなんです。そのほうが明確だし、うまくやれば必ず褒めてもらえるし……それに、好きなひとと、いっしょにいられるし」
「ああ、そう」

 私はできるだけ素っ気なくいう。

「じゃあ、見捨てられないように頑張ってね」

  
  


「……っ、ん……藤生、もう……」

 背中にあたるシーツが冷たいのに、私に触れる藤生の指は熱い。
 それは求めるままに動き、感覚の上を這っていく。

「きれいですよ、先輩……ここ、昨日の跡が残ってる」
「藤生が、噛むから……」
「だって、そうしてほしかったでしょう? 私、頑張りますね」
「あれは、そういう意味じゃ……っ」

 赤みを帯びた傷のすぐとなりに、唇が熱の塊のように触れる。火傷するのではないかと思った。時間をかけて跡を残すと、そのまま私に体を重ねてくる。シャツを脱ぎ、下着も脱ぐと、包み込むように腕を私の下に差し入れた。

「緑間先輩、今日はどのくらい、夜のことを考えていましたか」
「……いいたくない」
「私の顔を見るたびに、でしょう」

 藤生は職場で見せることのない勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「付き合う件についてですけど、考えて頂けましたか」
「そ、その案件はまだ保留で……」
「メッセージの返信はすぐにしろって、先輩がいつもいってるのになあ」

 中性的な声が耳元で囁く。

「先輩……悪い子ですね」
「調子に乗らないで」

 ふいに伸ばした腕が、藤生の頬をかすめた。ネイルが引っかかったのか、右眼のすぐ下に赤い線が浮かび上がってくる。目を細めて少し不愉快そうな表情になった彼女が、いつになく美しく見えた。

「いいですね、それ……」

 目の下をこすりながら彼女がいう。

「ご、ごめん……」
「抵抗されると意地になっちゃいます」

 行為はいつもより激しくて、私が疲れ切るまで終わらなかった。ぐったりと体を伸ばしてシーツに横たわっていると、ベッドに腰かけた藤生の背中が見える。生白い傷は、一年前に初めて見たときと変わらない。最初は怖気づいてしまい、傷そのものについて聞くことすらできなかった。
 今だって、彼女の過去について触れることにはためらいがある。
 それはやはり、私たちがただのセフレであって、恋人同士ではないからだろう。仕事でも、セックスでも、そこにあるのは今だけだ。
 ベッドの上では、過去も未来もぜんぶ蒸発してしまって、絶頂のあとの私たちの抜け殻だけがそこに横たわっている。
 だから。
 私は、彼女の傷をなぞる。神経の途切れたそこに、私の知らない過去が繋がっている。孵化の叶わなかった何かが、傷のなかから私を見つめている。私たちは連続する今の塊だ。その重みの下に敷かれた何か……沈黙した過去が、そこにいる。

「吸ってもいいですか」

 藤生は煙草に火をつけようとしているところだった。私は手を伸ばして、彼女の指のなかからそれを抜き取った。

「あ」
「付き合おうか」

 ぽつりと漏らした私のことばに、藤生は目を丸くして振り向いた。

「本当ですか」
「気が変わったならいいよ」
「よくないです。変わるわけないじゃないですか。好きです、大好きです」
「あはは、必死だ……珍しい」
「必死になりますよ。当り前じゃないですか。え、本当に? やった、やった」

 藤生は感情を持て余して、同じことばばかり繰り返した。

「でも、どうして……急に?」
「うーん、なんだろ……」

 藤生の裸の背中に腕を回して、そこに走る傷に手を添わせる。

「頑張ってる後輩の期待に応えたくなったからかな」

 やっぱり、触れられていることには気づかないらしい。
 傷跡は柔らかい。そこに爪を立てる。
 つよく、つよく。

「ねえ、私……結構わがままだよ」
「大丈夫です」
「ほんと? 我慢してたぶん、恋人っぽいこと、結構要求しちゃうよ」
「してください。かわいい先輩、たくさん見たいです」
「あっそう」

 首筋に抱き着いて、藤生の唇にキスをする。考えてみれば、藤生とキスをするのはそれが初めてだった。

「たばこ、返す」
「……え?」

 ぼうっとした顔のまま、彼女は私を見つめる。

「吸っていいよ」
「え、でも……」
「どうせこれから、慣れなきゃいけないしさ」
「いえ、吸いません」

 藤生はたばこを灰皿のなかへ放ると、私をまたベッドに押し倒した。無言で私を貪る。
 終わったあと、藤生は電車の時間も忘れて寝入ってしまった。うつぶせになった背中に、傷跡がみえる。それは呼吸のたびに上下する。私は生白い皮膚に舌を這わせる。藤生の感じることのできないところに感覚を這わせるのは、なんだかとても疚しい気持ちになってしまう。

 涎に濡れたそれは薄闇のなかで光り、ひとつの秘部のようだった。
  
 

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