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夜に泳ぐ

 李(リ)は夜のプールの底を蹴って水面へと浮上した。無人のプールサイドから眺める私には、それが水棲のいきものか……咲いたばかりの睡蓮のようにみえた。梯子を掴んで水からあがる。胸元に滴った水が、水着の表面をなぞって腰へ、ふとももへ、かかとへと流れていくのが遠くからでもよく見えた。
「你也游泳吗(ニィイエヨウヨンマ)?」
 李は中国語でそういったあとで、頭を振ってショートヘアについた水滴を落とした。それから私の座るベンチに近づいてくると、今度は日本語でいう。
「春海も泳げばいいのに」
「私はいいよ」
「気持ちいいのに」
 彼女はにっこりと笑ってみせる。細身の体と、かわいい顔つきに反して、大胆な性格だ。さすが水泳部のエースというところか。夜の学校のプールに忍び込むなんて、いくら寮から近いとはいえ、彼女に誘われなければしなかっただろう。
 李が隣に腰を下ろしたとき、彼女の体から跳ねた水が頬に当たった。それは塩素のにおいが強く、私にいつか溺れたときの記憶を思い出させた。それから、昨日からずっと頭のすみにひっかかっているわだかまりも。
 気持ちが沈んでいきそうになったとき、李の右手がそっと制服のスカートの皺を伸ばしてくれた。もしかしたら、残っていた水気を拭っただけだったかもしれないけれど。
 視線を感じて顔を上げると、李はすぐ隣でじっと私を見つめ、微笑んでいた。
「ダァハイ」
「だー……なに?」
「ウミ。海だよ、春海」
 私の名前のことをいっているのだと気づく。
 プールに移る月光に目を細めて、李はわずかに首を傾げた。
「春の海なんて、すごくきれいな名前だね」
「私は嫌い」
「どうして。私は好きだよ」
 そういってころころと笑う。私は鼻で嗤う。
「だって、海なんて……水なんて怖いもの」
 同じ十六歳なのに、こんなに笑い方が違うのはどうしてだろう。
 国籍が違う。話すことばが違う。表情も違う。
 昨日、李のことを中学時代の数少ない大切な友人たちにラインで紹介しようとした。そのときのことを思いだしてしまう。
――お父さんの仕事の都合で、中国から来たんだ。水泳がすごく上手で、日本語の勉強をすごく頑張っていて、それにとてもかわいい。
 そういっても彼女らは結局、李と会うことを拒んだ。
――だって、話すことがないし。怖いし。
――でも、日本語はすごく上手なんだよ。
――うーん……ていうか、それが怖いかな。
「ちぇっ」
 私はベンチの隅に置きざりになっていたヘアピンを、プールに放り投げた。それは弧を描かずに、ゆっくりと揺れながらプールサイドに落ちて滑り、排水溝のなかへ落ちた。李は目を丸くして、それから面白いものを見つけた、というように微笑んだ。
「春海、怒ってる。珍しいね」
「怒ってない」
「急にプールに誘ったの、悪かった?」
「ううん。べつに……私、李の泳ぎを見ているの好きだし」
「そう?」
「うん……たぶん、私が泳げないから」
「溺れた?」
 水のいきものである彼女は、聡明に尋ねる。
 私は素直に頷いた。
「うん。中学生一年生のころ、いじめられてね……いじめって、わかる?」
「是(シー)」
 急に沈黙が訪れる。でも、それは嫌な静けさじゃない。幼いころ……まだ水が怖くないころ、近所にある海辺を母親と散歩したとき、そこにもことばはなかった。けれど、波の音はあった。それから海鳥の鳴く声や、砂礫を踏む音も……それと同じ種類の音が、私と李のあいだにもある。黙っていても、静けさのなかには、響き合う何かがある……その音が、どうしてほかのひとには聞こえないのだろうか。
 凪いだ水面に映る月は、わずかに傾いたように見える。夜の学校は静かだ。このまま、だれも来ないまま、この夜が続けばどんなに気持ちがいいだろう。ここに座って、誰の声も聞こえないまま、李のきれいな泳ぎのフォームを見続けるのは……。
「春海、泳ごうよ」
 李はふいにそんなことをいって立ち上がった。
「駄目だよ……泳げない」
 私は首を振って拒む。見上げた彼女は薄暗いなかでぼんやりと光っている。きっと透き通るような白い肌が月光に愛されているのだろう。
「じゃあ、私と泳ごう」
「待って」
「いこう」
 手を引かれて、つまずきながら彼女についていく。プールサイドはところどころ彼女の跡で湿っていた。李は私の肩を抱くと、まるで祈るように目を閉じ、私のおでこにその小さなおでこをくっつけた。
「李……怖い」
「没问题(メイウェンティ)……春海」
 最後に一度、私の名前が聴こえた。倒れていく。冷たい。まだ水には入っていない。思い出すのは突き落とされたときの手の冷たさ。水に落としてやろうよ。なぜって、面白いから。慌てふためく姿がみたいから。死んじゃうかもしれないけれど、それはそれで楽しいから……。うす笑い。馬鹿笑い。きっとこれからも、何度も思い出すだろう。叫んだ私と、駆け付けた教師と、保健室で泣いた母親のこと……「行くよ、春海」手が引っ張られる。頭から暗い水に飛び込む。ああこれは本当の冷たさだ。沈んでいく。真っ暗闇だ。めいっぱい吸い込んだ息が肺をぱんぱんに膨らませている。耳元で気泡がはじける。冷たい。私は手をぐっと伸ばして、そこにいるなにかに触れる。表面は冷たいのに、その奥には無限のぬくもりがある。滑らかなさわり心地のそれにしがみついて上も下もわからないままに目を開くと、ずっと頭上に波打った紺青の水面と、微笑むみたいに揺れる月の影があった。プールの底なのだ、と思い出す。そして、私が抱き着いているのが李の体であることも。ここは静かだ。誰の声も聞こえない。騒々しい声はずっとずっと遠くに置いてきて……李の体温しかわからない。
 ぐん、と水を掻き分けて体が浮上する。
 次に見た景色は、さっきまで私たちが立っていたプールサイドだった。なにも変わっていない。そのはずなのに、もうそこはさっきまでの世界ではなかった。揺れる水面から見上げる景色は、なにもかもが大きくて、かっちりと安定していて、私とは無関係なもののように思われた。
「春海、ごめんね」
 李の声がすぐ近くで聴こえた。振り向くと、真横に顔があった。
「怖かった?」
「怖かった。ばあか」
 水をかけてやると、李はちょっと瞼を細めただけで、笑っていた。
「……私もね、怖いこと、あるよ」
 李が微笑んだままいう。
「お父さんがこっちに来るっていったとき、すごく嫌だった。友達とはさよならだし、日本のことなんて知らない。でもね、学校に入って、寮にみんなで住んで……春海とたくさん話すようになって、毎日楽しいよ」
 濡れて肌に貼りついた制服に、李は体をくっつけてくる。そこにはやはり温もりがあった。
「……李も、知らない人と会うのは怖いの?」
 私の脳裏にこびりついた、昨日の友人たちのことばがよみがえる。怖い……そう、知らないものは怖いのだ。怖いものはずっと遠くに置いておきたい。近づこうものなら遠ざけたい。そう思うのが、普通なんだろう。
 李はゆっくりと首を振った。
「今はもう、怖くないよ」
「どうして?」
「春海といっしょなら大丈夫って、思ったから」
 息が止まりそうになった。それは私にとって意外な答えだった。あまりにも嬉しくて、あまりにも勿体ないことばだったから。俯いてしまう。彼女の顔をまっすぐに見ることができない。
「私なんて……どうしようもないやつだよ。声が小さいってよくいわれるし、いつもはっきりしないし……」
……だから、いじめられる。ずるいんだ。いつも人の顔色ばかり見ている。自分でも、それが分かっている。
「温柔(ウェンロウ)」
「なにそれ」
「春海はやさしいひと。私が落ち込んでると、いつもそばにいてくれる。困っていると、すぐに声をかけてくれる。そういう人には、いいことがあるから。そういうひとは、きっと幸せになるから……」
 背中に腕を回される。きゅうっと私を抱きしめると、李は私の額にゆっくりとキスをした。戸惑う私に、彼女はいった。
「春海が辛そうにしていると、私も辛い」
「……えっと、そうなの?」
「是(シー)」
 そのこととキスがどう関係しているのかはわからなかったが、それならもうちょっと明るい顔をして生きようかな、と思った。それと同時に、どうして彼女がわざわざ、夜のプールに誘ってくれたのか、その意味がわかった。優しいのは李のほうだ。沈んでいく私の手を、しっかりと掴んでつなぎとめてくれたのだから。
「ありがとう」
 と私がいうと、李ははにかんだみたいに微笑んで、
「不用谢(ブーヨンシェ)」
 といった。

 李はそれから、何度か私をプールに誘った。それはとても楽しい時間だった。まだひとりでは泳げないけれど、李といっしょなら水のなかにたゆたうことはなによりも気持ちがよかった。
 それから、李から中国語を習い始めた。発音や字の違いは難しくて、まだまだ習得には時間がかかりそうだけど、そうやって彼女のことばを知ることは、彼女自身を知ることでもある気がした。
 友人たちには、はっきりと気持ちを伝えることにした。あくまでも、簡潔に。
――私の大切な友達に、会ってほしい。
 また拒否されたらどうしようかと思ったけれど、返ってきたのは謝罪だった。
――この前は、ごめんね。
――ちょっと気持ちが前に出ちゃって、春海の友達を怖いとかいって……本当にごめん。
 私はなんていっていいのかわからなくて、それに対してなかなか返事ができなかった。私が気持ちをはっきりと伝えないために距離が生まれ、そのためにふたりを憎んでしまっていたことを申し訳なく思うばかりだった。

「春海、浮かぶのうまくなってきたね」
「そうかな」
「ひとりで泳いでみる?」
「待って。まだ、早い」
 ころころと笑いながら、李はいった。
「だってさ、ずっと私に抱き着いてるのも、おかしいよ」
「これがいちばん安定するんだもの」
「子供みたい」
 あの夜から、ときどき夜のプールに忍び込んでは、李の肩につかまって浮かぶ練習をしている。いつか彼女と泳げたらいい……と思うが、向こうは水泳部のエースだ。本気を出されたら敵わない。今はただ、こうしている時間が好きなのだ。
「こうやってると、春海と初めて会ったときのこと、思い出す」
「え、なんだっけ。私、プールでなんかした?」
「ううん。私が転校して初めての日のこと。授業がすぐに始まっちゃって、私、すごく混乱してた。でもそれ以上に、みんなの背中が怖かったのを覚えてる。どうしよう、ひとりぼっちだって思ったときに……隣の席の春海が声をかけてくれた。今みたいに、机と机をくっつけて、体がくっつくくらいに近づいて、わからないことを教えてくれた」
 そういえば、そうだった気がする。でもあのときの私はほとんど無意識に李に声をかけていたのだと思う。転校してきた彼女が自己紹介をし、隣の席に座るまで、ずっと目が離せなかったのだ。こんなにかわいい子が、ずっと遠くの国からやってきたということが、なんだか不思議な縁だと思って……きっとこれは運命なんだって、柄にもなく思っていた。
「おっと、春海、手が離れるよ」
「わ、危ない」
 ぼうっとしていた私の手が、つるりと肩から外れる。危うく溺れかけた私の腰を抱いて、李は私をしっかりと支えてくれた。
「大丈夫?」
「め、没问题(メイウェンティ)」
「あはは、いい発音。上手」
 李は気持ちいいくらいの笑顔でそういって、私の手を取った。私たちはまた、ゆっくりと水面を進んでいく。
 彼女に触れているところから伝わってくるぬくもりが、今はなによりも心地よかった。
 

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