幼女VS痴女②

 さて問題です。
 日本にある上り坂と下り坂。
 多いのはどちらでしょう?

 ……ええ、もちろんそうですね。正解は「どちらも同じ数」です。

 では、もうひとつ問題です。
 日本にある階段で、上り階段と下り階段、どちらがより多いでしょうか?

 ……どちらも同じ? いいえ、ちがいます。
 正解は、上り階段。
 なぜなら、絞首台へ続く十三階段は、上ることはあっても下りることはないのだから……

 ……そうだ、あの痴女。
 私の天敵にして、ド変態警察官
 あの女にあらゆる手段で以て十三階段を踏ませるまで、私の戦いは終わらない。
 痴女をこの街から抹消する!
 ゾンビのように、人気のない道しか歩けないようにしてやる!
 日陰者の人生を、お前に与えてやる!
 あッはッはッは……愉快……愉快だ……あのド畜生を豚箱に送るのも、社会的に殺すのも、わたしの手のひらの上……これ以上の愉悦があるだろうか……?

「しかし……どうやって……」

 朝の教室。わたしはHRで先生が話すのを無視して、頭を抱えている。

「奴は警察側の人間だ……しかも証拠はほとんどない……どうやってあいつが痴女だってことをみんなに知らせる……? 唯一の証拠は、あいつのスマートフォンのなかに……」

「ねえねえ、あんずちゃん」

 ちょんちょん、とわたしのシャツの裾を引っ張る力があった。
 隣の席の孫美鈴(そん みれい)だった。
 中国の父親と日本人の母親のハーフの女の子。父親が外資系企業のお偉いさんで、結構金持ちらしい(ゾンビウィルスとか作ってるんじゃないかな)。今日も高そうな筆箱と高そうな服が目立っていた。

 ちまっこい背丈だが、丸くて大きい目と小さな鼻が可愛らしい……らしい。世の中、いろんな価値観がある。もちろん、明るくてはきはきしている美鈴のような子が好きなひともいるだろう。けど、大多数の人が支持する通り、人間は腐っているほうがかわいい

「なに、美鈴。今話しかけないで」
「え、でも、わたしたち友達じゃないの……」
「友達だよ。お互いに名前を知っているという点においてね」
「またアメリカ映画みたいな喋り方してる」

 くすくすと笑う美鈴。なんてお上品な笑い方だ。
 そうしていると、本当にお嬢様なんだな、と思う。

ああ……あんずちゃん……監禁したい……
「あ?」
「ん? ううん」
「いや、美鈴、今確実にヤバいこといって……」
「そういえば不審者が出たんだって。知ってた?」
「話題のずらし方が雑だね……」

 まあ、聞き間違いだろう。こんなお嬢様の口から、あの痴女みたいなことばが出てくるわけがない。

「まあ、知ってるけど……それがなに」
「あんずちゃん、かわいいから気を付けてね」
「それをいうなら美鈴のほうでしょー……お金持ちだし、美人だし。そういえば、美鈴の好きなものってなんだっけ」
「え、どうしたの、あんずちゃん……どうして、そんなこと、聞いてくれるのかな?」

 頬を真っ赤にして、もじもじする美鈴。

「そういや、もうすぐ美鈴の誕生日だったなって」

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


「うっせ!」

 高周波のゾンビ避けサイレンみたいな声だった。教室のみんながこっちに振り向いた。視線に気づいた美鈴が「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り倒して、一時間目の予鈴が鳴った。一時間目は体育だ。女子は隣の空き教室に移って着替えをしないといけない。

「ほ、ほら、美鈴……いこう」
「あ、うん……」

 カーテンを締め切った部屋で女子だけ集まって体操服に着替える。
 だらだらお喋りしていると先生に怒られるので、さっさとやらなければいけない……のだけど、すぐにはそうできない。

「……?」

 視線を感じるのだ。
 間違いなく、奴だ。
 あの痴女が、どこかからわたしを見ている
 もしかして、盗撮用にカメラを設置しているのか? まさか、学校のなかにまで入っては来られないはず……いやいや、あいつならなにをしても不思議じゃない。
 わたしは視線を感じる方へ振り向いた。

「……どうしたの?」

 そこに立っていたのは、体操服に着替え終えたばかりの美鈴だった。

「あ、あんずちゃん……どうしたの?」
「え? あ、ううん、なんでも……」

 ……おかしいな。たしかに、視線を感じたのだけれど……気にしすぎだろうか。痴女とのあの一件以来、いろいろと気にしすぎているのかもしれない。

「そ、そんなに見られたら、恥ずかしいよあんずちゃん……」
「あ、ごめん」
「ううん……さっきは大きな声出してごめんね、あんずちゃん」
「いやまじで鼓膜破けるかと思った」
「あんずちゃんが誕生日を覚えてくれていたのが、嬉しくって、嬉しくってつい……ァハ

 冷気を感じて、腕の皮膚がぷつぷつと粟立った。

「ま、まあ、友達だからね……」
友達……!

 美鈴は頬に手を当てて、大げさに驚いてみせた。

「ねえねえ、あんずちゃんは、どうして私と友達でいてくれるの?」

 期待に満ちた目でわたしに近づいてくる。
 わたしは即答する。

名前がゾンビだから。ほら、孫美鈴のなかに、ゾンビって入ってるじゃん?」
「……」
「え……なにその目。褒めてんだけど」
「…………」

 空虚な目をして固まったあと、美鈴はさっさとドアを開けて出ていった。
 ……わたし、なにか変なこといったかな。 

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 その夜、塾から帰るときのこと。
 あの一件から、塾と家のあいだは両親に送迎してもらうことになった。ちょっと自習室にこもりすぎたかな……時計を見ると七時に近かった。だけど、受験勉強のためだから、仕方がない。
 塾の前の駐車場に立ってパパの車が現れるのを待っていると、見たことがないくらい長い胴体のリムジンが滑り込んできた。ああ、こういうのってほんとにあるんだな……映画で大統領がこういうの乗ってて、当然の如くゾンビに横倒しにされて、そのまま棺桶になるんだよな……フヒヒ……あ、開いた。

「あんずちゃーん」

 リムジンのドアから飛び出してきたのは、美鈴だった。昼間と着ている服が違う。フリフリが多くて、下ろし立てみたいにきれいな白色のワンピースだった。

「美鈴! どうしたの?」
「あんずちゃんのパパから電話があったの、どうしても今日迎えに行けないから、もしよかったら迎えにいってくれないかって」
「え? でも、いいよ。家まで歩いてすぐだし」
「だめだよー。夜道は危ないって、先生もいってたよ?」
「うーん……まあ、いっか。じゃあよろしく」

 いつもと違う車に乗っていた方が痴女の目も欺けるだろう。わたしは手を引かれるがままに、リムジンに乗り込んだ。

「うわーすっごい。映画でみたまんまだ」
「うふふ。すごいでしょ」

 広々とした空間に革張りの白いソファーがL字型に置かれ、真ん中には背の低いテーブルがある。その上にはジュースとお菓子が置かれていて、まるでだれかの部屋に遊びに来たみたいだ。

「ぜんぶ、あんずちゃんのために用意してもらったの。好きなだけ食べていいんだよ」
「すごい……」
「でしょでしょ? あんずちゃん、嬉しい?」
「めちゃくちゃうれしー……大統領になったみたいだ。テンション上がるなー」
「大統領……? うん、まあ、よろこんでくれてよかった!」

 車はいつの間にか動き出していた。発車したことにも気づかなかった。窓の外で、白い光を投げかける街路灯が後ろへと過ぎ去っていく。後部席と運転席は仕切られていて見えないけれど、きっとお抱えの運転手さんがいるのだろう。

「……ねえ、あんずちゃん」
「なにー?」
「私のお誕生日、覚えていてくれてありがとう」

 ソファーの上に投げ出したわたしの手に、美鈴の手が重なった。特に意味もなく、その手を見て、美鈴の顔を見る。近い。さっきまで体ひとつぶん離れていたはずなのに、今はすぐ目の前、息がかかりそうなくらい近くにいる。

「な、なに、美鈴……近くない?」
「近くで見たいの」
「いつも隣の席で見てるじゃん?」
「もっともっと近くで見たいの」
「だって、ほら、もう、おでこがくっつきそう……んんんん!?

 避けられなかった。
 美鈴の唇が、私の唇に重なった。最初はそっと……しかし、だんだんと力強く押し付けられる。やわらかい。あったかい。優しい。……そのすべてに混乱する。
 なんだこれ。
 なにが起こっている!?
 なんでわたし、友達とキスしてるんだ!?

「っ……ん……」
「っぷは……はあ……はあ……なに、美鈴、なにしてんの」
「……ァハ」

 唇が離れるが、顔はまだすぐ目の前にある。
 頬を真っ赤に染めて、美鈴はとろけたような笑みを浮かべていた。

「あんずちゃん」
「な、なに」
「あんずちゃんあんずちゃん」
「……」

「あんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃんあんずちゃん」

「ヒィ……ッ」

 既視感。
 ついこの前も、こんなことがあった。
 痴女の淫らな笑みがフラッシュバックして、吐きそうになる。
 顔を近づけたまま、美鈴はいう。

「だいすき」
「う、うん、美鈴……わたしもすきだよ」
「ほんと? ほんとに?」
「ほんと。ほんと。友達のなかで、いちばん、好き」

 友達、美鈴しかいないけど。

「ちがうよね」

 美鈴は皿の上を見ずに、指先の感覚だけでロシアンクッキーをつまみ、わたしの口元に近づけた。

「あんずちゃん、これ、ほしい?」
「いや、べつに、お腹空いてないし……」
「ほしい?」
「い、いらない」
「ほしい?」
「……だから、いら」
「お人形さんは『うん』しかいわないんだよ?」

 ぞっっっっっ……と怖気が背筋を走った。体が勝手に震えあがる。
 そうだ、この感覚……着替えのときの視線は、勘違いじゃなかった。
 わたしを見ていたのは美鈴だったんだ。

「わたしは、お人形さんじゃない……よ」
「お人形さんなのよ? こんなにかわいいんだから、美鈴のお人形さんになるために生まれてきたに決まってるのよ。ね? ほしい? あんずちゃん、これが最後だけど……このクッキー、ほしい?
「……ほしいです」

 観念して口を開けると、その大きめのクッキーを無理やり喉奥にねじ込まれた。反射でむせて、口のなかのものをぜんぶ床にぶちまけた。苦しくって、涙が自然とぽろぽろとこぼれた。

「ごほっ……ごほ……っ」

 おかしいな……わたし、わたし……なんでこんな目に合っているんだろう?

「運転手さん、スピードを上げてください」

 冷たい口調で美鈴がいう。はっとして窓の外を見る。もう、家についていておかしくない時間だ。それなのに、ここはどこだ? 外の景色がぐんぐんと後ろへ遠ざかっていく。もうそこは見覚えのない町だった。

「もうすぐ高速道路に入るの」

 美鈴は淡々と告げた。

「富士山のふもとに、むかし宗教団体が使っていた古いけど広い施設があって、そのひとつをパパが買い取ったの」
「なにそれ……ゾンビでも研究するの?」
「おしいー!」

 教室で見せるような笑顔で、美鈴ははしゃぐ。

「死体を防腐処理するんだよぉ!」
「……?」
「知ってる? 人間の体って、いろんな部分がお金になるんだよ。パパがいってたけど、臓器も、血液も、骨髄も、脳も、目玉も、皮膚も、体ってぜーーーーんぶ、お金になるんだって。すごいよね。それでね、できるだけ長く保存しておくためにはいろんな機械が必要だから、おっきい場所が必要なの……そこに、今からいくんだよ」
「まさか……」
「うん。パパにね、お誕生日のプレゼントのお願い、したんだ」

 美鈴はゆっくりと口を動かした。

「花宮あんずちゃんがほしいって、お願いしたの」
「まさか……美鈴」
「うん。そのまさか。あんずちゃん、誕生日プレゼントなにがいい? って聞いてくれたよね。すっごく嬉しかった! あははははは! ありがとう! 美鈴が欲しいのはね、あんずちゃんなんだー!」

 美鈴の顔は喜びに満ち満ちていた。

「パパにお願いして、あんずちゃんの死体を防腐処理したら、あんずちゃんはお人形さんになるんだぁ……そしたら、ずっとずっとずっとずっと、ずぅーっと、いっしょだね!」
「く、狂ってる……」
「なにが? ねえ、あんずちゃんは、ゾンビが好きなんだよね? ゾンビが大好きなんだから、死んでお人形さんになるのは、本望でしょ? ゾンビみたいなものでしょ?」

 わたしはもう、目の前にいるのが誰かわからなくなっている。教室でずっといっしょに過ごしてきた孫美鈴は、もうどこにもいない。そこにいるのは、笑顔で友達の殺害計画について喋る、狂った十一歳の女だけだった。

「もっと、スピードを出してください」

 美鈴がまた運転手にいう。窓の外に、一瞬だけ高速道路入り口の看板がみえた。次の瞬間には、高速道路の料金所を通過していた。

「ふう……ようやく、高速道路だね。これで、あんずちゃんのパパやママが気づく頃には、私たちは富士山の麓だね」
「パパから迎えを頼まれたって……あれは嘘?」
「あはははは! それはほんとだよ。私しか、友達いないもんね、あんずちゃん。でもさあ、お迎えにいくとはいったけど、そのあとどこに連れていくかは、約束してないよ? わたしはあんずちゃんのパパに、『もしよかったら夕ご飯を一緒に食べて、それからお送りしてもいいですか?』って、いったんだ。そしたらパパ、『どうぞよろしくお願いします』……だってぇ……くすくす」

 もうだめだ。きっと、パパとママが警察に電話をするのはずっと先のことだろう。今頃わたしは、友達の家に招かれて夕食を食べていることになっている。そして夜が更ける。娘が帰ってこない。両親は慌てて孫美鈴の家に電話をかける。もうとっくに車で家の前まで送った……けれど、それから先は知らない、と答えが返ってくる。すぐさま警察に電話する……しかし、誰が孫美鈴を疑うだろう? 警察の捜査が済む頃には、わたしはもう冷たい人形になり果てている……そしておそらく、わたしが陽の光を浴びることは二度とないのだ。

 冷たいショーケースのなかに、糸の切れた操り人形のごとくだらりと座る自分を想像する。
  ……冗談じゃない。
 動けるぶん、ゾンビの方が百億倍マシだ!

「美鈴」
「なあに?」
「ごめん」

 テーブルの上に置かれたジュースのグラスをひっくり返しながら、わたしはドアに突進した。さすが高級車だ、運転中に立ち上がってもふらつきもしない。ドアの取っ手に指をかけ、開け放とうと思いっきり力をこめる。

「あんずちゃん、なにしてるの!」

 美鈴を無視して、ドアを開ける。空気の分厚い壁が邪魔をして、うまく押し開けることができない。それでも、小学生ひとりぶんの体重をかければ、徐々にドアと車体のあいだに間隔が生まれ始める。

「やめて! 今、120キロは出てるんだよ? 死んじゃうよ、あんずちゃん!」
「てめえわたしのことさんざん殺すとかいってたじゃねえか!」
「ちがうもん! お人形さんにするんだもん! あんずちゃんは、美鈴のとなりでずっとずっとずっとずっと、生き続けるんだもん! 不死的美学なんだもん!!!!
「きがくるってる!」

 わたしは腕に力をこめる。

「ふざけんなよ……ゾンビ映画も観れない体なんて、生きてるなんていえるかよ……! わたしはまだ、ほんもののゾンビにも会ってないんだぞ……!」
「あんずちゃんもたいがい気が狂ってるよ」

 しかしわたしの努力は空しく、ドアはばたりと閉じた。と同時に、腰にしがみついていた美鈴が車の後ろのほうへ吹っ飛び、続いてわたしもその上に折り重なるように転がっていった。急ブレーキがかかったのだと気づいたのは、けたたましい擦過音が響き渡ったあとだった。
 体に負荷がかかる。
 それが次第に弱まっていき、リムジンは完全に停止した。

「な、なに……? なんなの?」

 伸びてしまった美鈴を置いて、出口のほうへよろよろと歩み寄った。今度こそドアを開ける。後ろから車が来ないことを確認して、リムジンの前方を覗き込むと……そこに、真っ赤な二輪車が横向きに止まっていた。ただのバイクじゃない。ノーマン・リーダスがウォーキング・デッドのシーズン5から乗っているみたいな、シンプルだけど無骨でかっこいいバイク。

 その上に、ヘルメットをかぶった人物が跨っている。リムジンのヘッドライトの前からバイクまで、二本線の真っ黒い跡が続いている。たぶん、あのバイクの持ち主が急ブレーキをしたから、リムジンもそれに倣うしかなかったのだろう。
 わたしは再び後方を確認すると、リムジンから飛び降りて、そのバイクのもとへ駆け寄った。

「すみません! 助けてください!」

 そこまでは大分距離があった。車のなかから美鈴が飛び出してくるんじゃないかと気が気でなくて、何度も振り返った。

「助けてください! 誘拐されるところだったんです! 警察を――」

 バイクの後ろへとたどり着く。バイクに跨ったそのひとは、ヘルメットのままこちらを向く。車体と同じ真っ赤なライダージャケットが、暗いなかでリムジンのヘッドライトに照らされていた。両隣の車線を、車がびゅんびゅんと通り過ぎていく。

「あの……助けて……」
「ええ。もちろん」

 くぐもった声が、ヘルメットのなかから響いてきた。

「あなたを助ける。そういったわよね、あんずちゃん」

 ……聴き覚えのある声だ。しかし、いったい、いつ? 二三度しか聴いていないはずだが、脳内に強く刻み込まれたこの声……。

 脳が否定する。

 目の前の事実が、飲み込めない。

「……ま、まさか……お前は……」

 ヘルメットを脱ぎ、両手で抱えるように持つ。
 長髪が揺れ、その隙間から見知った顔が覗く。

 ――痴女だった。 
 痴女が、そこにいた。



「ち、痴女……なんで、ここに……」
「もちろん、あなたを助けるためよ」

 痴女はこともなげにそういうと、にたぁ、と笑みを浮かべた。

「花宮あんずちゃん……また会えてうれしいわぁ……ゥィヒ……」

 体から血の気が引いていく。あとずさる。一瞬でも、かっこいいと思ってしまった自分が悔しかった。まさか、こんなところで天敵に巡り合うとは思いもしなかったのだ。

「っ……もしかして、またストーカーしていたんですか……」
「その話はあとでね。ほら、見て」

 女の指差す方を見ると、リムジンから美鈴が這い出てこようとしているところだった。まずい。本当にまずいことになった。なにがまずいって、進んでも戻っても、地獄だということだ。

 前門の痴女、後門の狂った同級生。

 こんなの、天秤にかけるのもおかしいじゃないか。
 できることなら、こんな究極の選択をする人生には足を踏み入れたくなかった。

「あんずちゃん、乗って」
「嫌だ。それだけは嫌だ!」
「えぇ……どうして?」

 そんなの、今度こそこの女に捕まって、拉致監禁される未来しか見えないからに決まっている。大声を出そうにも、ここは高速道路の上だ。誰にも声は届かない。

 このバイクに乗ったら、すべておしまいだ……だけど、戻ってリムジンに逃げ込んでも、お人形になる未来しかない……。

 なんだこれ。
 わたしの人生、なんだこれ!?

「まあ、いいわ。よっと」
「あ」

 終わった。わたしの小さな体は痴女の穢れた両腕に抱きかかえられてしまった。そのまま、後ろのシートに座らされる。
 あっけないな……こんなにあっさりと、人生は終了してしまうのか。

「じゃ、出発よ。これ、ヘルメット」
「うわあ頭のサイズがぴったりだぁ」
「かぶった? じゃあ、行くわよ。腰につかまって」
「うわあジャケットの下になにも着てないのが感触でわかるぅ……」

 もう、いわれたとおりにするしかない。この戦いは、わたしの敗北だ。最初から詰んでいたのだ……。ライダージャケットの腰にしがみつくと、すぐに動き出した。リムジンとは比べ物にならないくらい狂暴な音を立て、前進を始める。

「待って!」

 美鈴の声。
 振り返ると、彼女はリムジンのヘッドライトの逆光のなかに立って、こちらへ手を伸ばしていた。

「あんずちゃん! 私の……私の、大切なともだち!」

 ……ごめんな、美鈴。
 ふつうの友達は、「大切なともだち」を死体人形にはしないんだ……。

「とばすわよ」
「ぇぐっ」

 爆音とともに、体が風になる。
 めまいがしそうなほどの高速に戸惑い、わたしは腰に抱き着く力を強めてしまった。つかまる場所を求めて体をまさぐるみたいになり、そのたびに痴女はくぐもった声で鳴いた。

「ェゥヒヒ、ぇうひひひひ、いぃひひ……ンぐふ。あんずちゃんが、わたしの腰椎にしがみついてるよー……夢みたい……ぅふふ、ああ……もう死んでもいい……ィヒ」

 わたしはぎゅっと目を閉じて、胸の奥からこみあげてくる嘔吐感をおさえこむ。
 バイクはリムジンからどんどん遠ざかっていった。

「人を好きになるのって、厄介なものね」

 爆音と風の音でかき消されたけど、たぶん、痴女がそんなことをいった。

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 こんな夢をみた。

「転校生の孫美鈴です。よろしくおねがいします。家がお金持ちです」

 転校初日の挨拶からぶちかましたその女の子は、すぐにみんなに嫌われた。

 体育のときには誰ともペアを組んでもらえない。高価そうな筆箱はすぐに隠される。重箱に入ったお弁当は持ってくるたびに中庭の鯉の餌になった。

 それでも彼女はめげなかった。
 お金持ちの家に生まれたことを誇示しつづけた。

 ある日の席替えで、わたしたちは隣同士の席になった。

「私、家がお金持ちだからなんでもしてあげられるわよ」

 高飛車にそういわれた。

「なんでも?」
「ええ、なんでもよ」
「じゃあ、ゾンビしかないなぁ」
「ゾンビ……?」
「今度やるゾンビ映画、いっしょに観ようよ。誰もいっしょに観てくれないからつまんないんだ」

 たぶん断られると思ったけど、彼女は二つ返事でオーケーしてくれた。
次の休日、約束通り映画館にいったら、なぜか貸し切りになっていたのにはびっくりした。

「ゾンビ映画って、ちょっと面白いね」
「お、わかる?」
「うん、わかるよ」

 映画館から出たとき、女の子は……美鈴は、興奮気味にそういった。

「まあ、明日また観ようっていわれたら、土下座してでも断るけど……あんずちゃんは、どうしてゾンビが好きなの?」
「たくさん人が死んだり、喰われたりするから」
「頭おかしいね」
「美鈴がいう? お金持ちアピールしまくってクラスで避けられてるの、わかってる?」
「あんずちゃんこそ、ゾンビの布教のしすぎで痛い子扱いされてるのわかってる?」

 おんなじことで笑い合えたら友達。そんなことばを聞いたことがある。
 だとしたら、わたしたちはそのときにはじめて友達になれたのだと思う。

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 目が醒めて、顔を洗う。
 朝食を食べて、歯を磨く。
 学校へ行く。
 通学路で、痴女に会った。
 驚くことはない。昨日、約束した通りだったのだから。

 奴は交差点の交番から姿を現すと、登校するわたしたち小学生の列に「おはようございます!」と明るく挨拶をした。もちろん、ちゃんと警察官の制服を着ている(この場合の「ちゃんと」とは「裸ではない」という意味だ)。

「おはようございまーす! 今日もみんな元気だね!」
「……」
「あ、あんずちゃんだ! おーい、あんずちゃん、おはよう!」
「…………」
「おはよう、あんずちゃん! あんずちゃん! あんずちゃーん!」
「………………」
「……グフ……無視されるのもたまんねえなぁ……ウヒヒ」

 目の前を通りかかったとき、小声でそんなことを囁かれた。だめだ。こいつにはなにをやっても効果がない。あきらめて立ち止まると、涎を手の甲で拭く痴女を見上げた。制服姿を見るのはこれで二度目だが、こうしてみると完全に擬態している。誰も、こいつが夜な夜なほとんど全裸で小学五年生の女の子を尾行しているとは知らないのだ。

「……おはようございます」
「うん、おはよう! あんずちゃん、昨日は大変だったね! あれからよく眠れた?」
「あんまり眠れなかったですけど」
「うん、知ってる! ずっと見てたからね……あ、なーんちゃって。冗談だよ、冗談!」
「もうやだ……」
「あ、そうそう。昨日のことだけど、おおむね解決すると思うよ」
「……そうですか」

 腹が立った。痴女にではない。
 痴女に頼ることしかできない自分にだ。

「富士山麓の樹海にあるっていう施設は特定できたから、向こうの県警がもう動き出していると思う。捜索が入ったら、あの子のパパは捕まって、体のパーツを売るお仕事はぜんぶおしまい……もう、あんずちゃんになにかすることはできないと思うよ」
「そうですか」

 わたしはできるだけ興味なさそうに答えた。

「ねえ、ねえ、あんずちゃん。わたし、あんずちゃんのこと助けたよね?」

 時間をおいて、わたしは頷いた。
 痴女はにちゃあぁと暗い笑みを浮かべる。

「じゃあ、お願いしてたあれ、ちょうだい?」
「今、ですか」
「うん。お昼に食べるから」
「食べ……え? 食べるんですか? あれを?」
「丸一日かけて消化するわ」
「うげぇ……はい、どうぞ……」

 心底嫌そうな顔を作ったつもりだった。ポケットから百円均一ショップで売っているような小瓶を取り出すと、それを痴女に手渡す。

「おほぉぉぉぉ……」

 奇抜な歓声をあげて、瓶を陽にかざした。振ると、なかのものが瓶の内側にあたって少し心地よい音を立てた。その音にわたしは顔をしかめ、女は喜びに顔を歪ませる。瞳孔が開き切っていたが、すぐに日中であることを思い出したのか、それを制服のポケットに仕舞いこんだ。
 にっこりと笑顔を作る。

「大切にするわね」
「……はい」
「ね、どこの?」
「……いわなきゃダメですか」
「おねがい」
「……親指の、です」
「へぇ……」

 わたしは右手の親指を握り込んで隠した。痴女の視線が、撫でるようにそこに注がれているのがわかる。

「そっか……大切にするね……あんずちゃんの生爪

 それが昨晩の別れ際に痴女の提示した対価だった。
 奴はわたしが塾を出る前から、わたしが攫われるのがわかっていたらしい……どうやって? 答えは単純明快。帰宅してすぐに家の電話を調べてみたら、盗聴器が仕掛けられていた。ぞっとした。あいつ、いつの間に家のなかに……と思ったが、先日の暴漢の件でわたしに事情聴取をするために、あいつは一度家に上がっているのだった。それはすぐに近所の川に捨てた。今頃、東京湾を漂っていることだろう。

 痴女は結局、わたしをまっすぐに家に送り届けた。もう二度と両親の顔を拝めないと思っていたわたしは、呆然としながら痴女の話を聞いた。今日あったことは両親に話さないほうがいい、とこの前とは真逆のアドバイスを残して奴は去っていった。

 もちろん、話せるわけがない。友達に誘拐されたあげく、殺されて人形にされかけましたなんて、いっても信じてもらえるわけがない。

「じゃあね、あんずちゃん」
「……」
「いつでも、あなたのことを見守ってるからね……ィヒヒヒヒヒ」

 ばいばい、と手を振って、女はまた交番のおまわりさんに戻った。
 わたしはさっさと歩きだして、そこから離れる。
 命と引き換えに、いろんなものを失った気がした。



「……ふふふ。ふふふふふ」

 角を曲がり、痴女からみえないところまで来て立ち止まる。
 安心すると、笑いがこみあげてきた。
 失ったものはたしかにある。
 しかし、得たものもある。

「ふふふ……ふふふ……あっはっは……あはははははははははははははははは!」

 痴女よ、わたしの勝ちだ。

 昨晩、バイクに跨ってお前にしがみついたとき、わたしがただ敗北の苦汁を舐めるだけだったと思ったか? 死んでも活路を見出す……これぞゾンビ道! わたしはランドセルの奥にしまいこんでいたそれを取り出し、そこにあるという実感を確かめる。

 それは痴女のライダージャケットの腰ポケットに入っていた。
 奴の悪行の証拠。
 罪業の揺るぎない証左!

「これがあれば……ふふふ、はははははは! やったーーーーー!!」

 天を仰いで勝利の雄たけびをあげる。


 わたしが手にしていたのは、痴女のスマートフォンだった。


「あーっはっはっはっはっは……! あははははははははははは!」


「おい、花宮のやつがまた気持ち悪い笑い方してるぞ……」
「しっ! またインフルエンザウィルスをばら撒かれるわよ!」
「ウェスカー極まってんな……目合わせないでおこうぜ」
 

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 美鈴は学校に来なかった。
 翌日も、その次の日も、ずっと……。
 ある日、両親の留守中に、わたし宛てに荷物が届いた。
 送り主は「孫美鈴」だった。

 大きめの段ボールのなかには箱があり、よくみるおもちゃ屋さんの包み紙でラッピングされていた。パパとママに見られる前に部屋に運ぶと、わたしは慎重にそれを開封した。
 紐をほどく手が震えた。包み紙を裂く手が迷った。これ、本当に開けていいものなのだろうか……もしも開けたとたんに致死性の高いガスとか出てきたらどうしよう……と戸惑っているうちに、ラッピングを剥がし終える。
 なかに入っていたのは、透明なプラスチックのケース。
 子供ひとりぶんは余裕で入れそうな、透明な箱。
 
――……だけど、その中身はからっぽだった。

 わたしはそれを前にして、しばらく何も考えられずに立ち尽くすことしかできなかった。
 
(つづく)

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