猫が海に落ちて、56年の夢から覚めた話

海じゃなくて、池に落ちたことがある。幼稚園の園庭だった。私は5歳で、冬だった。
リレーのようなことをしていたのである。二人一組になって、一人がダルマさんのかぶりものをかぶり、もう一人が手をたたいて誘導し、旗を回って帰ってくるというリレーだった。
しかし私は旗を回り切れずにまっすぐ進んでしまった。その先に池があったのである。
池はコンクリートでできた四角い水槽で、夏には睡蓮が咲いた。
視界が金魚が棲む水の緑色に染まり、もがき、手を上に伸ばしたところで誰かに引き上げられた。

びしょ濡れの私はふだんは行ったことのない離れのような部屋に連れていかれ、洗濯してあるだれかのお古の少し大きい下着とセーターとズボンに着替えさせられ、お茶をもらった。そこへ担任だった主任先生(園長先生のきょうだいだった)が走って飛び込んできた。主任先生は開口一番「いいんですいいんです、この子は鈍いから」といった。
そのあと母が迎えにきた。母は私を叱ることなく連れ帰り、甘酒を作ってくれた。

このできごとを思い返したきっかけは先日見た猫が海に落ちた夢だった。海の中に入った夢を見たことがあまりないな、なぜだろう、と思ったのだ。タイムラインをさかのぼり、何度目、何十度目かもしれない思いをめぐらした。そう、何度目何十度目。
にもかかわらず、私はとつぜん、突然気づいた。夕暮れ、仕事場に向かうために自転車に乗っていたときだった。

これ、私悪くない。悪いのは幼稚園だ…!

考えたこともなかった。

コース取りも間違いだし池に網をかけていないのも間違いだ。ダルマの被り物には穴が一つもなく、かぶったら何も見えなくなる作りだった。それでもしも音が聞こえなかったら、どこに歩いていったって不思議はない。
何より、落ちそうになったとしても、旗のところに教員がついていたら、すぐ止められた。
たとえ私がほかの子がやらないことをしでかしたとしても、そんな子でもできるようにやりかたを考えてあげたらよかったんじゃないだろうか。
身長100センチあるかないかの、たったの5歳なんだから。

なのに私はこのできごとを、「鈍い私」のあかしとして後生大事に抱えていたのだ。56年も。
ちがうそこじゃない。たとえ私が、反応が遅かったり薄かったりする子だったとしても、そこじゃない!

風が暖かくて私は息をついた。信号待ちのマンションの花壇に花が咲いていた。気づきが広がっていった。なんだか夢から覚めたように思えた。

母は黙って私を連れ帰ったと思う。職員の誰かに何か訴えたっておかしくはなかった、しかしその記憶は私にはない。逆に幼稚園に迷惑をかけたくらいの思いで帰ったのではないかと思えて、母がかわいそうになった。
ペアを組んでくれた子は細くておとなしい印象だった。私が落ちたことにさぞびっくりしたろうし、責任も感じたかもしれない。そう考えると今さらどころの話ではないが、その子にとても申し訳なく感じた。

やっと私は自分から離れ、周りの人を思いやる余裕ができたのだった。そしてまた自分に入った。この自分は前の自分とは違う自分だった。以前の自分にはもう戻れない。以前の自分はもういないから。

今井先生のセッションのレポートにこの気づきを書いた。夢解きと夢解きのあいだのことだが、今井先生は話題にしてくれた。それで、思ったことが人との間で言葉になって、気づいたことが確かになって、戻らない自分が確かになった。


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