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「意識エネルギー」に法則性は存在するのか。

これはなかなか難しいテーマです。

ある人にっとっては有ると言えますし、またある人にっとっては無いとも言えるからです。

ある意味で、「普遍性」を有しますし、有さないとも言えるのです。

つまりそれは、「人による」と言うことです。

べつに差別している訳ではありません。

それは概ね、「本人の選択」だからです。

それは、どのくらい「論理的に考察できるか」だけではなく、多くの「人生の体験」を通して、何をどう、どれだけ選択したかで決まる(決める<注1>)様です。

<注1>
この「決める」とは、当人の「場の意識」の選択であり、「関係の意識」にとっては、「決まる」と言えます。

一つの選択だけで決まるものでもなく、ある意味で貴方の良心において、「何をどの様に志向するか、分離を選択しなかったか」で決まります。

人には何らかのコンプレックスが少なからずありますし、それによって間違った選択をしてしまうこともあります。

だからと言って、それで決まってしまうものでもありません。

少なくとも私の場合は、多くのつまずきを経験し、コンプレックスにより他者を傷つけたことも、少なからずありました。

誰もが聖人君子では居られませんし、この多くの制限を持つ「物質次元」では、避けては通れない道でもあります。

ですが、根源的なところで、徹底的に追い詰められたところで、その選択が発動します。

仏教の伝統に、「諦観」と言う言葉がありますが、これがその「究極の選択」を意味する言葉であると、私は理解しています。

私の場合も、パワハラ上司との確執で、徹底的に追い詰められたところで、「蛹」になる選択を行いました。

自らを俯瞰し、組織の中の相手の立場も理解し、少なくとも意識の上では「意識としての自己と、肉体としての自身の同一化」を保留にして、「諦観」の姿勢を貫きました。

誰もが出来る事ではないのかも知れませんが、怒りの矛先を誰かとの「関係」にではなく、何らかの「場」に求めたのです。

半分破れかぶれです。

「被害者にも加害者にもなりたくない」と言った、ばかみたいな「究極の選択」だったのです。

ですが、結果的には「人生の反転」が起りましたし、不思議な奇跡のご縁と繋がりました。

そして、「9次元存在」のチャネリングメッセージとの「シンクロ(意味共鳴)」でも、驚くべきことに、同様の選択が「意識進化に寄与する」との指摘がなされて居たのです。

決して誰にも教わらなかった「意識進化のシナリオ」が、まるで私のブログの投稿を待って居たかのように、より具体性を増して開示され出したのです。

そして、「進化の前衛」として、このチャネリングメッセージと、私の「人生の暗黒期」→「人生の光明期」→「人生の覚醒期」の体験の流れが、見事に「シンクロ(意味共鳴)」したのです。

だからと言って、棚ぼたの様に、お金が急に湧いて出たり、宇宙人がやって来て、魔法を教えてくれた訳ではありません。そして、いろいろと「自身の人生体験」を考察した結論として、全てが「自立を即すエネルギー」だと言うことに気が付いたのです。

つまり、日本文化に古来から在る、自立のための「ご縁を繋ぐエネルギー」なのです。

そしてそこには、「物や他者への異存」が、一切ないのです。

あくまでも自立した「ディンギー」に向かって吹く風の様な「意味エネルギー」なのです。

この「ご縁の力」は、個人の能力(情報収集能力)の限界を超えて、適材適所(行くべき場所)へと導いてくれる、「偶然と奇跡の意味エネルギー」だったのです。

「御蔵島での嫁との出会い」もそうですし、「京都の秦氏の聖地への誘い」もそうですし、「秦氏の入植地である、琵琶湖湖畔の適材適所の職場との巡り合わせ」もそうでした。

そしてその全てに、「宗像三女神(航海と導きの女神)の神話的モチーフ」が、手を変え、品を変えてシンクロするのです。

数々の「スピリチュアルな意味」の「象徴的な集合現象」なのです。

まさに「風の時代」にピッタリの、「存在が醸し出す意識のエネルギー」なのです。

9次元のアルクトゥルス星系の「集合体のエネルギー」は、人間のみならず、宇宙全体の「意識進化を即す意味エネルギー」です。

だからこそ「仏教の伝統(十牛図)」で言うところの牛飼いが、意識を進化させる修行者の象徴でありながら、牛のくびきは、意識の束縛や抑制と同時に、意識進化(悟りへ)の導きの象徴でもあるのです。そして「西洋の伝統」のアルクトゥルスは、「牛飼い座」の一等星なのです。

「東洋の伝統の意識文化」と「西洋の伝統の意識文化」が協働したところに見えて来る、ユニバーサルで前衛的な「進化した意識文化の境地」とも言えそうです。

「意識エネルギーの法則性」は必ず存在します。

人事を尽くした先に得られる「奇跡のご縁」。

「日本文化」が担う「覚醒」とは、こう言った「存在と繋がるセンス」の目覚めなのです。

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