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『覚醒』について思うこと。

スピ系界隈では「アセンション=覚醒」の話題で持ちきりですが、何とも壮大で抽象的な内容が目につきます。

まあ、基本的にはオープンなサイトでしか確認出来ていませんので、会員サイトの中には貴重な体験情報もあるのかも知れません。

そんな中で、自身の体験とシンクロ(意味共鳴)して来る新たなチャネルがあり、後ほど詳しく紹介したいと思います。

さてその前に、このチャネリングメッセージとも絡んだ、印象的な体験がありましたので書いてみたいと思います。

先日は、急遽父親の介助のために神奈川県の実家に帰省しました。

私の親はかなりの高齢で、歩くこともおぼつかず、記憶も斑で、つい昨日の事さえも忘れてしまう有様です。

ですが、思考はしっかりしており、話をする限りでは、あまり高齢を感じさせません。

ただついさっきの事を忘れてしまい、歩行のもどかしさと相まって、時々イライラを爆発させてしまいます。

そんな中、ある妄想に捕らわれたのです。

それは、「自分の知らない間に、大切なことを勝手に決められている。」と言った妄想です。

昨日の事を忘れてしまうため、一緒に決めたことだと言っても承知しないのです。

「いや、俺は聞いていない」の一点張りなのです。

父親は、もとより実直で賢い人で、筋が通らない事を嫌います。

「忘れているだけだ」と説明しても、「知らないものは知らない」と聞き分けません。

ですが、父親のその気持ちも良く解るのです。

「肉体の自分」と「意識の自分」が強固に「同一化」した自己には、そう言った想定が追いつかずにたまに混乱してしまうのです。

「昨日の自分」と「今日の自分」が「赤の他人」なのです。

そして、普段はとても穏やかな人なのに、何かの拍子に怒りを爆発させるのです。

実は私にも、この「同一化」と関連した体験があります。

それは以前ここでも紹介した、「全身麻酔の手術」の体験です。

まさに、意識は連続して感じているのに、間がすっぽりと抜け落ちる体験をしたのです。

その間、「肉体の自分」は、「痛い!」と叫んでいた様なのですが、記憶がないどころか、自分にとっては、その間が存在しない体験だったのです。

まさに、目を一二分ほど閉じて、周りの声を聞きながら再び開けただけなのに、その間がすっかりないのです。

これらは、スピリチュアルな体験ではないのですが、「意識の不思議」を実感させられた体験となりました。

人間の「意識の位置(場)」が、「関係の意識」と「場の意識」とで「同一化」されていると、これらを相対化できないのです。

つまり私にとっての「覚醒」とは、この位置を創り出す「能動的知性」の確立なのです。

この「能動的知性」は、科学的知性を持ってしても揺らぐことはありません。

この様なタイムリーな体験を、いったい誰が仕組んだのでしょうか。。。

それでは次回は、新たな「チャネリングメッセージ」と、これらの体験とのシンクロ(意味共鳴)について、書きたいと思います。


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