自分の名前の由来を考えたら少し病んだ話

自分の名前、「輝」。

親からちゃんとした由来も聞いてるんだけど、「輝いた人生を歩んでほしい」という意味で、ざっくり言うと付けられた。

街ではクリスマスソングが絶えず流れてるけど、「今の自分は親に恥じず輝いてるのかなぁ」、と考えてみた。

そもそも、「輝いてる」の基準ってなんだろう。輝いてるというのは、誰かが自分のことを客観的に見た姿で、自分が主観的に輝いてると思っていればいいわけではないはずである。

誰かが自分のことを客観的に見て、輝いてると思う時は、誰かは自分のことを誰かと比較して見ていて、つまり相対的に見ていて、「周りと比べて輝いてる」と思った時に、自分は輝いてる判定をされるんだと思う。

自分に光が当たって輝いてる時、誰かはその光の陰に入って、つまりは「輝いていない」ことになる。

自分が輝きたいと思えば思うほど、誰かを陰にしなくちゃいけなくなる、ということ。
そう考えると、自分の名前に誇りを持てなくなった。

誰かの不幸の上にしか自分の幸せは存在しないのか。
それとも、そもそも幸せを求めることが、誰かを不幸せにしているのか。

さとうみつろうさんの、『悪魔とのおしゃべり』を本屋で見つけて読んでた時にこんなこと考えてた。

(自分や誰かや世界に期待をするから、期待通りにならないことにネガティブな感情を抱いたり、「彼女が欲しい」という夢は彼女がいないということが叶っていることと同じだったり。
つまり、何かを求めるから何かが失われてるのであり、モノゴトはプラスマイナスゼロですよということを面白く教えてくれる本です。)

並列で今マルクス・アウレリウスの『自省録』も読んでいる。
起きる出来事は全てただの物質的な出来事で、つまりは自分には無関係な出来事であること。
自分は、周りで起こる出来事を、自分の解釈や価値観によって装飾して処理している、ということを考えてた。

特にメッセージ性のない備忘録に違い投稿になりました。以上です。

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