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あぁ…本当に下手な人。

 ストーリーズについた足跡を確認した麻美は1人心の中でつぶやいた。どんなに多くの友達から足跡がついていても、一瞬で彼のアイコンは分かる。色とりどりのアイコンの中に1つだけの初期設定のままのアイコン。彼からの連絡を待ちわびている時は、そのこだわりのなさが彼の美徳のようにも見えた。でも今夜は、彼が年老いていて時代に追いついていないことの象徴のように感じた。もうずいぶん前から、そう思っているかもしれない。

 きっと明日の朝には彼から「金曜空けといて」と連絡が入るだろう。もう何年もそうだ。麻美よりもずっと年上の彼は、彼女がSNSを使いこなしているのをじっと見ていて、隙を伺っているのだ。「会いたい」と素直に言えないのは、年上の矜持を示しているつもりなのだろうが、麻美にとってはもはや滑稽にしか感じられないものだった。

 始まりは強引だった。
 大学を卒業して、英会話教室の講師として働き始めた麻美は、自宅の近くのバーに寄ることが日課になっていた。話す相手といえば子どもばかり。同僚とは必要最低限の言葉しか交わさない。そんな日々に辟易としていた。
 誰か大人と、特に目的もなくおしゃべりをしたい。その気持ちが抑えられず、自宅から徒歩5分にあるバーの門を叩いたのだった。マスターは年の頃は50歳そこそこといった、白髪交じりのオールバックが似合う、話の上手い人だった。麻美は、一番左のカウンターに座り、ナッツをつまみにマスターと他愛もない会話を楽しみながらウイスキーを静かに飲むのが好きだった。特にお気に入りはグレンフィディック。フルーティーな味わいが好きだった。おいしいウイスキーと楽しいおしゃべり。薄暗いバーの照明も心地よく、まさに麻美だけのオアシスだった。

「ジャパニーズウイスキーも悪くないと思うけど?」
 そう言って、まるで待ち合わせでもしていたかのように自然に座って話しかけてきたのが彼だった。自分だけの心地よい時間に闖入してきた彼を疎ましく思う反面、麻美は急に自分の間合いに入ってきた彼に興味を覚えた。
 年の頃は40位だろうか。そう多くない頭髪をきれいに後ろに流している。浅黒く日に焼けた肌に、白いラルフローレンのボタンダウンシャツがよく似合っていた。すっと通った鼻筋に、切れ長で少し垂れた目元が甘い雰囲気を醸し出している。
「グレンフィディックが好きなら、白州も気に入ると思うな。」
 そう言って彼は慣れた様子でマスターにオーダーした。2人の話す様子を見ていると、どうやら彼もこの店の常連のようだった。
 彼がグラスを差し出す。
 黙って受け取り、麻美はグラスを傾けた。口に含むと、爽やかな洋梨の様な香りがした。確かにグレンフィディックによく似ている。この人はよくお酒を知っている人なんだな、と感心していると、彼が満足げに微笑んでいるのが目に入ってきた。

 その後の会話はよく覚えていない。確かウイスキーに関する蘊蓄だったように思う。閉店まであれこれ飲んで、2人で店を出た。そして彼はまた当たり前のように麻美のアパートまで付いてきたのだった。

 翌朝目覚めた時には彼の姿はなかった。飲み過ぎて、夢でも見たのかもしれない。そう思いながら、水を飲むために起き上がり、キッチンへと歩き始めた時に、麻美の目の端に紙切れが目に入った。いつものバーの、ペーパーコースターだった。そんなもの、テーブルの上に置いた覚えはない。訝しげに思いながら裏返すと、11桁の数字が書かれている。090で始まるその番号が、携帯電話番号であることは明白だった。そして、その番号を残した人物も。

 連絡をする理由はない。大体、確認はしていないがきっと彼は妻帯者だ。
 二日酔いで痛む頭を働かせて、冷静を取り繕う。なんとか身支度をして、仕事に出た。出勤中も、子どもに英語を教えているときも、折に触れて昨晩の出来事が鮮明に頭を過る。忘れようとすればするほど、記憶がより鮮やかになるようだった。

 やっとの思いで仕事を終えて家に帰ると、玄関の前で煙草を燻らせている人影を見つける。彼だった。

 こうして始まった2人だから、この関係に名前も始まりもない。

 でも麻美はもう、いいかげん解放されたかった。誰にも言えない、人には知られてはいけない関係。続けていたってこれ以上は何もない。35を過ぎ、友達から2人目の出産の通知が来るたびに、自分は何をしているんだろうと苦しくなった。

 でも。それでも。

ーこの関係に先がなくったって、名前がなくったって、彼を失うことの方が何倍も辛い。何も知らなかった私に、色んな事を教えてくれたのは彼だ。もう、私の身体の半分以上は彼でできているも同然なんだー

 スマホの通知が光る。きっと「金曜空けといて」だ。麻美の返事はひとつ。

「分かった。白州用意して待ってる。」

 

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