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平城上皇と院政


「薬子の変」ではなくて「平城上皇の変」

 私が学校で日本史を教わった時には「薬子の変」という政変が教科書に載っていた。平安時代の初めころ、藤原薬子(ふじわらのくすこ)という女官がいて、この人は藤原種継の娘であった。薬子の娘が皇太子時代の平城天皇(へいぜいてんのう)の後宮に入ったことから自身も平城天皇に尚侍(ないしのかみ)として仕えて権勢を振るった。尚侍という女官は天皇の秘書のような役割を負っていたし、薬子は平城天皇のお気に入りだったから、まあ威張っていたのでしょう。

 しかし、809年に平城天皇が病のために弟の嵯峨天皇に譲位して奈良の旧・平城京に隠居すると、その権勢も潰えてしまった。それでも諦めきれない薬子は兄の仲成(なかなり)と共謀して、平城上皇には天皇に復位していただき都を平城京に遷そうとたくらんだ。翌810年に上皇から天皇に遷都を正式に謀ってきたのだが、嵯峨天皇方が藤原仲成を逮捕して更迭し、薬子は追放され結局は自殺したという、わずか三日で幕を引いた政変だった。

 なんと、はた迷惑な悪女であろうか。ところが、今はこれを「薬子の変」とは呼ばずに「平城上皇の変」と教えているそうだ。ちなみに、「新 もういちど読む山川日本史」には次のように記されている。

かつて「薬子の変」とよばれた事件は、(中略)平城上皇の意思が働いていたことは明らかなのに、『日本後紀』は仲成・薬子兄妹に罪を着せた。このことから、近年、従来の「薬子の変」ではなく、「平城上皇の変」と呼ぶことがある。 

「もう一度読む山川日本史」p63

 つまり、平城上皇自身が病が治ったら、また政治を主宰したくなり、それに賛同した仲成・薬子を使って工作を始めたということだったのだろう。そのせいで、一時期に天皇が二人いるような「二所朝廷」とよばれるような事態となったために嵯峨天皇方が強権を持って事態を収拾したわけである。

 尚侍という職制は平安時代を通じて残ったようだが、この政変が起きた後は、政務に関わる機密事項の管理は「蔵人頭」(くろうどのとう)という職制を新設してあたらせ、藤原冬嗣が任命された。これをきっかけにして藤原氏の中でも北家が勢力を伸ばすことになった。その後、班子女王を母に持つ宇多天皇が菅原道真を重用するなどの紆余曲折を経ながらも、藤原氏は天皇との外戚関係を利用して実権を握っていった。

院政のはじまり

 ところが関白藤原頼通の娘に皇子が生まれなかったために、藤原氏と外戚関係がない後三条天皇が即位することになった。1068年のことであった。この方は久しぶりに実権を握った天皇として摂関政治によって歪んだ律令制を修復すべく荘園整理令を発したために、摂関家は経済的な打撃を受けたようである。摂関家から取り上げられた荘園の少なくとも一部は寺社領という形をとりながら実質的に院の財産に編入されるようになった。また、院の庇護をあてにして寄進される荘園も増えていった。

 さらに後三条天皇の皇子であった白河天皇が皇位を継ぐと、まだ幼少だった堀河天皇に皇位を譲って自らは上皇(院)として実際の政治を執り行い、これが約一世紀にわたって続いた「院政」という政治の仕組みの始まりとなった。天皇に任命される必要がない上皇という地位によって行われる政治は、しばしば法や慣例にこだわらない専制的なものとなった。

 今でも比喩として「院政」という言葉が使われることがある。会社の実力者が社長の地位を後継者に譲った後も会長として、甚だしい場合は取締役ではない顧問とか相談役とかいう肩書のもと、重要な意思決定を自ら行う場合に院政という言葉が使われる。取締役である会長職ならともかく顧問やら相談役やらになると株主総会のコントロールが及ばないから始末に悪い。

 まさに院政が律令からはみ出した事態であるのと同様に、顧問や相談役というのは会社法からはみ出した存在なのだ。名前をあげて申し訳ないが、東芝はその弊害が先鋭的に顕れてしまった事例だろう。西室泰三氏(故人)など、本当に名経営者だったのか疑わしいと思っている。ただ、東芝の不祥事をきっかけに上場企業が顧問や相談役という「名誉職」の見直しを行ったことは進歩ではある。

院政の歴史的性格

 閑話休題。ところで昔の歴史の見方と今の歴史の見方が違うのは、「薬子の変」だけではない。院政についても今の歴史の見方では、中世の始まりと考えられているそうだ。以前は源平の争乱をもって中世の始まりとしていたのだが「新 もういちど読む山川日本史」では次のように述べている。

近年、院政期を中世の成立の画期とみるのは、中世社会の特色である政治権力の分散化、軍事専門家層の発言権の強化、主従制度の発達、重層的な土地所有制度、新仏教の発展などが11世紀半ばすぎからあらわれたとみる学説が定着したことによる。

「新 もういちど読む山川日本史」p86

 後世、藤原氏出身の高僧・慈円は朝廷内の政争の決着をつけるのに武士の力を借りた保元・平治の乱を見て、これからは「武者の世」と喝破したが、すでに院政期には中流以下の公家と武家が知行国制によって権力に組み込まれていた。そこには、律令制による官僚機構とは別に上皇を頂点とする主従関係があり、知行国のことは国守に任されたわけである。

 たしかに、そのような国のあり方は中世ないし封建制の特徴をよく体現していると思われる。もしも、源頼朝が流人という境遇から旗揚げをして鎌倉に武家の政権を樹立しなかったならば、日本という国は公武が合体した封建制(知行国制)に移行していたかも知れないし、意味がない議論だが日本の歴史もかなり違ったものになっただろう。

 さて、平城上皇の変に戻るが、「二所朝廷」と言われたような事態になり、上皇方が天皇方に敗れたのは父子で皇統を承継した院政とは異なり、平城上皇と嵯峨天皇が兄弟だったことが理由に挙げられるだろう。加えて、平安朝初期の平城上皇はあくまで律令制下の上皇(太上天皇)であった。院政期の上皇たちは独自の経済基盤をもち、武士を権力に編入していた点が異なる。まさに院政期は中世の始まりというとおりである。

 しかし、摂関家から実権を取り戻した二代目の白河天皇がなんとか自分の嫡流に実権を継がせたいと願った時に、この「二所朝廷」の故事がヒントになりはしなかっただろうか?三田誠広氏の小説では、大江匡房が院政のアイディアを白河天皇に進言したように書かれていたと思う。それは三田氏の創作かも知れないが、匡房が故事を換骨奪胎して、時代に対応した革新的な発想を示したと空想するのも、また楽しいものである。

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