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横浜家系ラーメンのあれこれ

家系ラーメンとは

 先に、二郎系ラーメンについて思うところを書いたので、こんどは横浜家系ラーメン(略して家系)について書きたい。このラーメンは神奈川県横浜市が発祥で、もとはといえばトラックの運転手をしていた吉村実さんが、九州で食べた豚骨ラーメンを東京ラーメン風にアレンジすると、新たに美味しいラーメンが生まれるはずだ、と考えて1974年に吉村家を開業したことから
始まった。
 考案されたラーメンはガテン系のお客さんを中心に好評で、吉村さん自身が後に本牧家を開店した。そして、そこの店長だった神藤隆さんという方が独立して、1988年に六角家を開業した。店の屋号が「屋」ではなくて「家」とされることが多く、吉村家に始まるスタイルの豚骨醤油味のラーメンや店を家系と呼ぶようになっている。
 今では、吉村さんから暖簾分けするような形で広まった店や、吉村さんとは関係なくチェーン店化して類似のラーメンを提供する店など、家系と呼ばれる店はたくさんある。その中で、最も歴史がある吉村家・本牧家・六角家の3つの屋号が「家系ラーメン御三家」と呼ばれていたのだが、六角家は残念ながら2020年に倒産してしまった。
 時節柄、一見コロナ禍が原因かと早とちりしそうだが、2015年頃から六角家の売上は低落傾向にあったらしい。その原因については、いろいろと語られているが、①競争環境、②顧客満足、③内部資源の3つの視点で整理できるのではないか、と私なりに思った。そして、六角屋の失敗について考えることは、飲食店チェーンの経営について示唆が得られるような気がする。

①競争環境の視点

 家系ラーメンは1974年に、前述のように「吉村家」から発祥したのだが、当初は吉村さんの弟子や孫弟子に当たる人たちが独立して自分たちの店を出していくにつれて広まって行った。六角屋もその一つだった。
 そうして家系ラーメンというジャンルの認知度が高くなり需要が喚起されると、つぎに家系の店で修行をしたことがない人たちが自分で工夫して店を出すようになった。それを「独立系」と呼ぶそうである。
 同様の流れで、個人ではなく一定の資本力のある企業がチェーン店を展開するケースも増えた。壱六家や町田商店などのように、企業によってチェーン展開されている業態を「資本系」と呼ぶそうだ。
 そうした「資本系」の店の特徴は吉村家や六角家のような職人的な味へのこだわりや個性はないけれど、スープなどセントラルキッチンによって、一定の品質で最大公約数のように多くの人の舌に合う商品をリーズナブルな価格で提供することにある。
 札幌味噌ラーメンや、博多豚骨ラーメンなどとは差別化された「横浜家系ラーメン」というジャンルの中で、できるだけ多くの人に安定した味と価格でラーメンを提供しようとするチェーン店が増えたことが六角家倒産の一因にあるという見方がある。
 それでも、昔から六角家のこだわった味が好きだというファンも多かったはずだが、家系という同じジャンルの中の競争で、どうして六角家が競争劣位に陥ってしまったのか、それについては2つの視点から整理できそうだ。

②顧客満足の視点

 六角家には足を運んだことがないので実際のところがどうだったのかわからないが、どうもカスタマー・ファーストを置いてきぼりにして、ラーメン屋が客よりも偉くなってしまった奢りがあったような意見が散見された。
 六角家がいちやく有名になったのは新横浜にある「ラーメン博物館」に出店して人気を博したことがきっかけだったようだ。その後、順調に系列の店舗が増えて、カップラーメンのコラボ商品の監修まで手掛けるようになった。
 ところが、反面、店員が客を軽んじて横柄な態度をとることが多くなったという指摘がある。この点については、更にその原因が気になったが、はっきりとしたことはわからなかった。実際に足を運んだことがないので真偽を確かめられないが、店のネームヴァリューによる店員の奢りがあったとしよう。原因として考えられることは、店舗拡大が急速で真摯な志や、十分なスペックを持ったスタッフを集められなかったことが背景にあったのかも知れない。

③内部資源の視点

 だが、仮に店の接客が気に食わなくても六角家の個性的な味が維持できれば、あの味が食べたい、と足を運ぶお客さんも大きく落ち込まなかったかも知れないが、現実はそのようには行かなかった。
 大きな要因は、六角家で修行した人たちがどんどん独立して自分の店を出したことだと言われている。そもそも、六角家の創業者の神藤さん自身が吉村家の創業者と喧嘩別れする形で独立したのが店の始まりなので、神藤さんには弟子の独立を留められなかっただろう。
 そして、そのことは、六角家の店舗から、その味をだせる職人が流出することを意味する。しかも、2017年には創業者の神藤氏が健康問題で一線を退いたことも影響して、六角家の味を維持できなくなってしまったのではないか、と思われる。こうして整理して見ると、六角家ないし横浜家系ラーメンのことに限らず、経営上いろいろ考えるべきことがあるように思われる。

資本系の意味するところ

 マーケットが拡大したところで、資本力のある企業が参入して店舗を拡大していくことは個人営業の店にとっては脅威ではあるが、資本系の強みは資本力や規模だけではないと思われる。
 むしろ、標準化による低コストと品質の安定を軽視すべきではないだろう。日本酒の世界でも「獺祭」(だっさい)のように杜氏(とうじ)の職人技に頼らずにITを駆使した製造工程の品質管理を行う新しいタイプの醸造所が業績を伸ばしている。
 吉村さんという個人の創意と工夫によって個性的な横浜家系というラーメンの味が開発されて、世に広まったわけだが、新しい商品やサービスの市場はそのまま一本調子に成長していくわけではない。
 一般にある製品のライフサイクルは、導入期に始まり、成長期を経て、成熟期を迎え、やがて衰退期に入るとされている。家系ラーメンの普及についてあてはめれば、吉村家で修行した人たちを中心に成長期を迎えたものの、独立系、資本系が入って来て、成熟期に移行していった。
 つまり供給側のプレイヤーは一様ではなかった。横浜家系ラーメンは、神奈川県というそれ自体、大きな人口を擁する地域で始まり、東京という神奈川県出身者を含む更に大きな人口がある隣接地域へと進出している。
 これは、博多や札幌、あるいは喜多方にはない特殊な立地要因だろう。それだけ横浜家系ラーメンが浸透しうるパイが大きく、市場の成長も速かったので、複数の資本系チェーン店が参入するのは必至だったとも言えないだろうか(一説には家系ラーメンの店舗数は1,000以上ともいう)。
 六角家が残念なことになったのは、店舗を増やすという、資本系チェーンと同じ土俵での経営戦略をとってしまったために、兵站が伸びてしまった(必要な資質をもつ職人と店舗スタッフを確保できなくなった)ことが敗因だと総括できるのかも知れない。
 後知恵に過ぎないが、無闇に店舗の規模拡大を求めず、自分の立地(伝統的な家系の味を求めるコアな顧客という市場セグメント)を守って、資本系チェーン店と棲み分けをはかるべきだったかも知れない。

職人気質と経営者への移行

 いろいろ調べる内に知ったことだが、家系発祥の吉村家では、直系の特に認めた弟子に暖簾分けする時「免許皆伝」と記した証書を渡しているそうである。そうした店舗は数えるほどしかないそうだが、味を守るという姿勢が感じられる。
 吉村家の創業者も当初は支店を増やして行こうとしたらしいが、よりによって最初の支店となった本牧家を任せた一番弟子の神藤氏がスタッフを引き連れて六角家として独立してしまったという曰く因縁があるわけだ。
 神藤氏が独立した理由はおそらく追求する味の方向性の違いだろうと思われるが、以来、吉村家と六角家との間はぎくしゃくして来たらしい。もちろん、六角家は吉村家から免許皆伝を受けてはいない。
 そして、袂を分かった吉村家と六角家は、自然に違う道を進むようになった。吉村氏も神藤氏もそれぞれ自分が創意工夫した味を広めたいと思うところは同じだっただろうが、吉村氏は弟子に相伝して、じっくり暖簾分けする道を、神藤氏は早く支店を増やす道を選んだように見える。
 一般論として、職人のこだわりを貫いた高品質の商品やサービスを大量に供給することは非常に難しいことである。規模の拡大を目指すのならば、こだわりを犠牲にして、標準化による品質の安定とコスト低減を図るのが常道だろう。違う業界の話だが、職人気質の大塚家具と標準化志向のニトリで明暗を分けたことにも通底するものがあるように思われる。
 そして結果的に資本系チェーンと同じ土俵で競合することになった六角家の神藤氏は職人としてのこだわりと、経営者としてのミッションと相容れない目標に身を裂かれる思いをしたのかも知れない。

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