第2章 街にテレビがやってきた—テレビ創世期のコミカライズ—

 1 月光仮面の登場——そして紙芝居と貸本屋が消えた

 ぼくが手がけたコミカライズ作品について述べる前に、ぼく自身の読者としてのコミカライズ体験について、少し紹介させてください。やはり、この読者としての体験があったからこそ、数多くのコミカライズの仕事ができたという思いもあるからです。
 ぼくは、1950(昭和25)年、富士山の南麓に位置する静岡県富士市に生まれました。
 日本におけるテレビ放送の開始は、1953(昭和28)年。ぼくが3歳のときのことです。この年の2月に、まずNHKが放送を開始。半年後の8月に、日本テレビが民放第一号として放送をスタートいています。この当時は、テレビ局の数も少なく、当然、番組数も限られていました。また、テレビの受像機も高価で、購入できるのは裕福な家庭だけ。庶民の家庭にテレビが入るのには、まだ数年を要しました。
 テレビの普及が一気に加速するのは、6年後の1953(昭和34)年のことでした。のちに昭和天皇になる皇太子と美智子妃のご成婚パレードを見るために、価格が下がっていたテレビを購入する家庭が急増し、普及率を一挙に高めたといわれています。
『月光仮面』がKRテレビ(現TBS)系列で放映開始になったのは、皇太子ご成婚の1年前、1958(昭和33)年2月のことでした。最初は毎日10分間ずつの帯番組だったそうですが、そのあたりのことは記憶にありません。それもそのはずで、帯番組時代の『月光仮面』は、地方にはネットされていなかったからです。
 その後、『月光仮面』は、第2部から第3部の途中までが、日曜日の18時から18時30分までの30分番組として放映されました。さらに放映時刻は日曜日の19時から19時30分に変更され、ここで定着します。
 ぼくが見ていたのは、この時間帯の『月光仮面』だったはずです。富士山麓の地方都市には、まだテレビは普及していませんでした。
 近所でテレビがあったのは、自動車工場の食堂だけ。小学3年生になっていたぼくは、毎週日曜日の夜になると、近所の悪童たちと連れ立っては、この食堂に出かけるようになりました。
『月光仮面』のスポンサーは武田薬品。番組開始を知らせる「タケダ・タケダ・タケダ〜」のジングルが鳴り響くと、食堂のテーブルに陣取ったぼくたちは、胸ときめかせながら、壁の棚に載せられたテレビの画面を凝視したものでした。『月光仮面』の主題歌『月光仮面は誰でしょう』が流れると、もちろん声をそろえての合唱になります。幼少期に『月光仮面』を体験した同年代の男性は、誰もが『月光仮面』の主題歌『月光仮面は誰でしょう』を歌えるのではないでしょうか。
『月光仮面』のCMに出てくるタケダのプラッシーというジュースにも、憧れを抱いたものでした。商店では市販されておらず、酒屋が注文を受けて配達する商品だったため、裕福な家の子どもでなければ飲めないジュースでした。当然、ぼくのような貧乏人の伜には無縁の飲み物です。上京後、初めて銭湯に行ったとき、冷蔵ケースの中にプラッシーがあるのを発見したときは、宝物でも見つけたような気分になって、つい買ってしまいました。果実の絞りかすが底に沈んでいて、飲む前によく振らなければいけないことを知るのは、もう少し後になってからのことです。
 ぼくたちにテレビの面白さを知らしめた『月光仮面』は、宣弘社という広告代理店が制作を担当していました。のちに作詞家になる阿久悠氏や、後にマンガ家になる上村一夫先生が勤務していたことでも知られる広告代理店で、銀座に本社がありました。
 原作は、放送作家をしていた川内康範氏でした。川内氏は、後に小説を書き、さらに『骨まで愛して』(城卓也)、『恍惚のブルース』『伊勢佐木町ブルース』(青江三奈)、『おふくろさん』(森進一)など、歌謡曲の作詞も多数手がけています。
 テレビの『月光仮面』で主役の私立探偵・祝十郎を務めたのは、東映の大部屋俳優だった大瀬康一でした。彼は、のちに同じ時間帯に放映された『隠密剣士』でも主演をつとめることになります。
『月光仮面』の人気は凄まじく、その人気にあやかった劇場用映画まで製作されました。映画会社は東映。主演はテレビとは異なり、これも東映の大部屋俳優だった大村文武がつとめました。ちょっと冷たい顔立ちの大村文武が主役を演じたのは、『月光仮面』くらいではないでしょうか。その後は、東映ヤクザ映画の斬られ役くらいでしか見たことがありません。
 子どもに人気の『月光仮面』は「少年クラブ」(講談社)でマンガ化され、1958年から61年まで連載されました。テレビ放送の開始とほぼ同時に連載を開始するメディアミックスの嚆矢でもありました。作画を担当したのは桑田次郎(現・桑田二郎)氏です。
 桑田氏は、後述するオリジナル作品の『まぼろし探偵』がヒットしていたせいなのか、『月光仮面』の終盤は、アシスタントの楠高治氏が描くようになりました。
 このほかに、鈴木出版から描き下ろし単行本で、井上球二氏と村山一夫氏が作画を担当した『月光仮面』のコミカライズ作品が出版されているようですが、こちらは未見です。
 1935(昭和10)年、大阪に生まれた桑田二郎氏は、13歳のときに描き下ろした『奇怪星団』(清雅社)という貸本向けの単行本で、マンガ家デビューを果たしています。このマンガ家デビュー最年少記録は、いまだ破られていないはずです。
 桑田氏は、その後、専業マンガ家となるため、中学卒業を待たずに横浜に出て、雑誌の仕事を開始します。さらに、さし絵画家の岡友彦氏の弟子となり、「おもしろブック」(集英社)などで、読み物に添えるさし絵を描いていたこともあります(「おもしろブック」で描いていたのは、戦前に高垣眸の作でヒットした『まぼろし城』だったはずです)。ちなみに岡友彦氏の弟子になったとき、遅れて入門してきたのが一峰大二先生でした。
 桑田氏にとって、1958年から連載を開始した『月光仮面』は、初めて手がけたコミカライズ作品でもありました。
 残念なことに、ぼくは、コミカライズ版の『月光仮面』については、ほとんど読んでいません。掲載されていた「少年クラブ」を読む機会が少なかったからです。
 当時、マンガといえば月刊少年誌で読むのが一般的でした。講談社からは「ぼくら」と「少年クラブ」、集英社からは「おもしろブック」と「幼年ブック」、光文社からは「少年」、秋田書店からは「冒険王」に「漫画王」、少年画報社からは「少年画報」、芳文社からは「痛快ブック」という月刊少年誌が、それどれ発行されていました。
 月刊少年誌は競争が激しく、付録の数を競うためか、「綴じ込みふろく」と称して、本誌の最後に連載マンガを載せたりもしていました。こんな付録も含めて「10大ふろく」「15大ふろく」などと称していたのですから、現在なら公正取引委員会のチェックに引っかかるのは間違いありません。
 こんな豪華な付録をつけるせいか、月刊少年誌の価格は150円以上もしていました。1962年12月号で休刊した『月光仮面』の掲載誌「少年クラブ」の最終号は160円。同時期の「週刊少年マガジン」は40円でしたから、4倍もの高い値段だったことになります。
 その頃の小学生の小遣いは、月額200円から300円ほどではなかったでしょうか。つまり、子どもの小遣いで買えるマンガ雑誌は、月に1冊がやっとになります。
 そこで子どもたちは、近所の友人と示し合わせ、それぞれ別の少年誌を買うのが常でした。自分が買った雑誌は、近所の友人が買った雑誌と交換して読むことになります。
 ぼくは少ない小遣いをやりくりして、集英社の「おもしろブック」(のちに「少年ブック」を経て「少年ジャンプ」)を買っていました。それを近所の友人が買っていた「少年」「冒険王」「少年画報」といった雑誌と交換して読むわけです。
 ところが、ぼくの近所には、「少年クラブ」を買っている友人がいませんでした。「少年画報」に連載された『赤胴鈴之助』や『まぼろし探偵』『ビリーパック』、「少年」に連載された『鉄腕アトム』『鉄人28号』『ナガシマくん』『ストップにいちゃん』といった作品は読んでいたのに、「少年クラブ」に掲載されたマンガの記憶がないのは、そのためでしょう。
『月光仮面』がスタートする1年前の1957年、桑田氏は、「少年画報」(少年画報社)でオリジナル作品『まぼろし探偵』の連載を開始していました。
 こちらは59年2月から60年10月にかけて、ラジオ東京(現・TBSラジオ)でラジオドラマ化されています。さらにKRT(現・TBSテレビ)系列でも、59年4月から60年3月まで、実写ドラマとして放映されたこともあり、原作のマンガも大ヒット作となりました。
 ただし、ぼくは、テレビ版『まぼろし探偵』については見たことがありません。ネット系列の関係で、静岡では放映されていなかったのが原因です。あ、いま思い出しました。近所に、素子の多い遠距離用の八木アンテナを東京の方角に向けて高く上げていた家があって、そこで実写版の『まぼろし探偵』を見せてもらったことが一度だけありました。もちろん白黒の映像で、ノイズだらけの画面でした。。
『月光仮面』と『まぼろし探偵』の主題歌は、いまでもカラオケで歌うことがあります。テレビは見ていないのに『まぼろし探偵』の主題歌が歌えるのは、ラジオドラマ版の『まぼろし探偵』を聴いていたからでしょう。
 桑田氏は、その後、SFロボットマンガ『8マン』(原作=平井和正)を「週刊少年マガジン」に連載。『8マン』は、すぐにアニメ化され、TBSテレビ系列で放映されました。
 その一方で桑田氏は、アメコミが原作の『バットマン』をコミカライズしたほか、『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』(いずれも円谷プロ)のコミカライズも担当しています。その過程で桑田氏の絵は、ペンタッチがシャープになり、クールさが加速していきました。なかでも「少年マガジン」に連載された『ミュータント伝』は、ペン画の極致ともいえる作品になりました。ぼくを含む多くのマンガ家、あるいはアシスタントが『ミュータント伝』のペンタッチを真似ようとしましたが、いずれも真似と呼べるレベルにも達しませんでした。

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