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感情を「使命感」が越えていく恐ろしさ

「好きなことだけやって生きていたい。」誰もが心ではそう思っている部分があると思う。だが、誰だって、時には、嫌な仕事もやらなくてはならない時はあると思う。でも、「本当にやりたくないことをやる」は、危険なことだと最近感じる。なぜなら、「本当にやりたくないこと」の根底には、「自分が本当に大事にしたいこと」が隠れていることが多く、それに背く行為をすることは、自分を痛めつける行為にも繋がり、世界にとっても良くない。

ちなみにこれは、組織に属していなくとも、個人事業主であっても、同じことである。



本当にやりたくない≠めんどくさい

私には、好きではない仕事がたくさんある。書類作成、計算...などなど。会社に所属していた時の方がたくさんあったが、個人事業主になっても、確定申告はしなければいけないし、毎月の請求書の発行、何かイベントや事業をやる際の収支計算は、プロに頼むほどのことでない場合は自分でやる。

こういった類は、「めんどくさい」けれども、「本当にやりたくない」というようなものではない。ここには、大した価値観は隠れていないので、まぁ効率化しながらやっていくしかないと思っている。

めんどくさがりの私にとって、「めんどくさい」は、毎日生まれている感情であり、行動(もしくは、行動しないこと)の動機にしてはいけない感情であることを、最近やっと認めた。(笑)




本当に、心からやりたくないこと

最近、あるきっかけで、自分が「本当に、心からやりたくないこと」を、心を無にしてやり続けていたことに気付き、その仕事を、完全に手放した。

私は今、所属しているコミュニティーで「人事」的な役割を担っており、それには、一部オペレーション的な業務も含まれている。その運営的な業務れというのは、当初やり始めた時には、「新メンバーをコミュニティのSNSに登録する」というような業務だったが、現状としては「コミュニティーを去っていったメンバーをSNSから削除する」という業務も、流れでやっていた。

とあるきっかけで、この「メンバーをSNSから削除する」という行為に、本当に心理的苦痛があったことに気付かされた。もちろん、SNSはただのツールであり、そこから削除する=コミュニティから排除した ということにはならない。だが、その行為が、私にとっては、まるで死刑執行のボタンを押すような、または、だれかを屋上から突き落とすような、そんな感覚だったのかもしれない。その苦痛の裏には、「人を排除したくない」という、強い想いが自分の中にあったのだと思う。

もっと恐ろしいのは、自分がその苦痛に無自覚になってしまっていたということだ。心を無にしなければできない業務だったので、心を無にしてやっていた。無意識に。むしろ、最近は、「私がやらなければ」という使命感に駆り立てられるように、なっていっていた。自分も気づかなかった。周りも誰も気づかなかった。苦しい感情を、自分の「使命感」が、越えていったのだ。

もう二度と、人を排除するような行為はしたくない。
少なくとも、この業務は手放したし、コミュニティーとしても、そもそものこの仕組みを見直すことにした。




めんどくさい≠本当にやりたくない

今回のは顕著だったが、今までにも「本当にやりたくないこと」をやっていたことはあったと思う。ただめんどくさいだけのことと「本当にやりたくないこと」が本質的に全く違うということが、今ならよくわかる。でも、今までは、その境が分からず、全部やっていたと思う。よく聞く「好きなことをやるためには、嫌なこともやらなければいけない」という言葉が、絶対的な価値観のような顔をしてこの社会に存在しているが、私はこの言葉に惑わされていた。


見極め方が分かった今、いろんなことが、もっともっと「イイ感じ」になっていく予感がしている。


これに気付きをえる代償として、何人かの人を傷つけてしまったことは本当に申し訳ないと思っています。ごめんなさい。ありがとう。

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