ダンテ『神曲』地獄篇第7歌〜貪欲と浪費〜

今日は1日オフ! やりたいことがたくさんできたので、とても良い一日でした(^^)

さて、今回もダンテ『神曲』地獄篇を読み進めます!
あなたは死後の世界でどうありたいですか??

重り

彼らは、一方の側からと他方の側から、大きな叫び声をあげ、胸を押し当て、重りを転がしていた。
(ダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇第7歌より)

とあるように、第4圏の者たちはみな、自ら重りを運んでいました。この人たち、実は全員が聖職者なんです。

浪費は、とりわけ聖職者たちにおいてはっきりと認められる。彼らは、貧しき者たちのものである教会の財産の配分者に過ぎないにもかかわらず、浪費することによって、貧しき者たちから詐取しているのである。
〜トマス・アクイナス『神学大全』Ⅱ-2,q.119,a.3,ad.1

胸の力で(per forza di poppa)重りを運んでいるとありましたが、これをScartazziniはこう解釈しています。

「富を恋い焦がれた心臓を収めるところが胸であるため、胸で重りを転がすのであって、手によってではない。」

貪欲な己の心によって、死後の自分を苦しめるのが、ダンテの語る「地獄」であります。ふ、深い…。

*霊界の法則*
《人は、生前生きてきたようにしか、死後も生きられない。》


フンコロガシ(scarabeo)

この人たちは、なんで自ら重りを転がしているの?

それは、彼らの金銭への愛着が、死後もずっと残っているからです。

お金持ちの人って、もっと稼ごうと思うし、高価なものやブランド品を買い集める人ばかりです。でも私たち(少なくとも私)には、その価値が分かりません。ヴィトンのバッグだから、何?って感じです。(そもそも、ブランドってなんなんだろう?)

でも、彼らにとってはそれが重要で、この重りを転がす行為も、彼らにとっては大事な使命なのです。

それをダンテは、フンコロガシのようだと比喩しているように読むことができます。彼らは霊的な視力(知性)がないために、その行為の無意味さに気が付かず、重り(=金銭への愛着=冥界でいう糞)を運んでいると考えられます。

フンコロガシはフンコロガシで、頑張って生きてるんだけどね!笑 でも確かに、当時の人からしてみれば、フンを転がすメリットはパッと浮かんでこないかも…。

↑ダンテが生きていたときには分からなかった、フンコロガシの驚くべき生態についてのサイトです!



地獄の経済効果

お金を浪費しすぎた結果、地獄では重りを転がすことになるなんて…私からみればなんだか大変そう。でも彼らは、それを能動的にやっているんですよね。

自分が自分の罰(拷問)なのである。
suppliciumque suum est.
〜オウィディウス『変身物語』第2巻 782〜

そういえば、第4圏の悪魔はどこでなにしてるの?

彼ら(聖職者)は自分自身に罰を課しているので、ここにいる悪魔たちの仕事は、それを高いところから監視しているだけです。だから、悪魔の人員は少しで十分。

お〜、人手不足にならない、なんて効率的な世界!!

アリストテレスが、自然は最小の手間で最大の効率を生み出すようにできている、と述べたように、ダンテの地獄もとっても効率よくできています!



『神曲』、もっと分かりやすく説明したいとは思っているですが、なかなか思うようにはいかず…アウトプットの練習あるのみですね泣

次回は、もっとお金の要素が強めになると思います。お金の本質的な価値について、一緒に考えられるような記事になるといいな…(願望)

それでは、またお会いしましょう*°



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