ダンテ『神曲』地獄篇第6歌〜死(まとめ)〜

どうも、今日は時間に追われ朝食も昼食も食べ損ねてしまった著者です。

今回は少し哲学的な内容となっています。いつもより長くなってしまったので、場合によってはつまらなく思うかもしれません。心安らかに読んでいただけたら幸いです。


人間は2回死ぬ

あなたは、「自分が死ぬ」ということにどんなイメージを持っていますか?

私は第6歌を読むまで、死んだら誰かがお葬式をやってくれるといいな、くらいしか考えていませんでした。死ぬって、「自分という人間がこの世から居なくなる」ってイメージしかなかったです。

ダンテは、死は2度訪れると考えています。1回目の死は[肉体の死]、そして2回目の死は[記憶からの死]です。この2度目の死は、生きている人の記憶から自分がなくなる、という意味です。

前回の記事で出てきたチャッコという死者は、主人公に出会ってすぐこう言います。 riconoscimi,se sai 「私が誰だか分かるか、見覚えがあるはずだが」。この一言から、彼は主人公に自分のことを覚えていてほしかったことが推測されます。

もしあなたがこの世に儚い名前を残して生きながらえることがあっても、その名前さえ奪われる日がいずれ近づき、やがて第2の死があなた方を待つ。
〜ボエーティウス『哲学の慰め』Ⅱ,7〜

私たちは2度目の死を、それぞれどのような形で迎えることになるのでしょうね。

私は自分の人生を通して、覚えていてくれる人にできるだけ良い影響を与えられるように、これからの人生を全うに生きたいと強く思いました。


食悦はなぜ死に至る大罪なのか

前々回の記事で、マズローの欲求5段階説と絡めて少しお話しましたが、他にもさまざまな理由があります。そのひとつに「食に対する貪欲は直接的に《隣人に対する罪》だからである」という理由が挙げられます。

一人の人間が外的な富を過度に所有すれば、必ず他の者はそれが欠乏することになる。現世的な善[食糧や地上の財や地位など]は同時に多数者によって所有されることは不可能だからである。
〜トマス・アクイナス(1225〜74)『神学大全』Ⅱ-2,q118,a.1.〜

確かにそうですよね。貧しい人たちが飢えに苦しんでいる横で、食べものを捨てるような真似はしたくありません。それにしても日本の食糧は廃棄されすぎです…。

あなたが独り占めしているのは、飢えている人々のパンである。あなたがしまい込んでいるのは、(着る服のない)裸の人々の衣服である。あなたが地中に埋めている金銭は、哀れな人々の救済と解放に当てられるべきものである。
〜アンブロシウス(340-397)『説教』第81(PL17 613-614)〜

贅沢な食事より、その日を無理なく生きていくための食事があれば、筆者はそれで十分だあ、と思いました。今後テレビで美食家の人を見たとして、「羨ましいな〜」とはもう思えないかもしれません。

また、地位や名誉や財産も究極いらないって考えも個人的には好きです。それらを得ることを目的とせず、死ぬまで世のため人のために行動できたら最高だなと思いました(^^)


食悦と量子力学

量子力学の世界では、なんでも「全てがつながっている」という考え方らしいのです。

全員で《一つ》の意識を構成している
ー 物理学者 デヴィッド・ボーム
各自はすべての中のすべて
ー シュレーディンガー

確かに、自分が関わっている人や物事って、微力でもなにかしらの影響は与えていますよね。

また、宮沢賢治も「すべてが私の中のみんなであるように、みんなのおのおのの中のすべて」と、私の中に他者のすべてがある、と言っています。

空から見れば私たちはつながっていて、敵だと思っている相手はみんな、実は自分の延長体である。
本当の敵は自分自身であり、他者など存在しない。

ちょっと複雑ですが、「バチが当たる」とか「因果応報」とかいう言葉は、こういった考えに基づいているのかもしれません。あ、因果応報はキリスト教ではなく、仏教用語でしたね!

私と同じ時間を生きるあなたに、明日もたくさんの幸せがありますように♪



今回は内容が分かりづらくなってしまいました…まとめきれずすみません(>_<)

もっと書きたいことは山ほどあったのですが、第6歌はこれで終わりにします。(ちゃんとまとめるとすると、かなりの時間がかかりそうなので…!)

次回からは第7歌を読み進めたいと思います。そちらもお楽しみに!


それでは、またお会いしましょう*°

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