君の匂い

 俺は“静かの海”にあるコロニーで月移民の三世として生まれた。祖父母が最初の月移民で、両親が最初の月生まれだ。月で生まれ、月で暮らすことに特に不自由はない、と俺は思っている。天候はコロニーのシステムで管理されているので、地球でいうところの天気予報というのはこちらでは天気予告で、外れるなんてことはない。物資も十分な量が地球から定期船で運ばれてくるし、他のコロニーとの交流もあるし、自分たちである程度の自給自足もできている。だから月に不満はない。けれどそれとは別に、いつか地球に行ってみたいという憧れは俺の中に幼い頃から強くあった。

 地球からの交換留学生が来たのは俺が高校二年生の時だ。彼女——夏海は旧東京にあたる海洋都市に住んでいる、つまり地球の海の住人だ。
「月の海って砂漠みたいだっていうからもっと大変なのかと思ったけど、地球とそんなに変わらないね」
夏海からはいつも不思議な匂いがしていた。今まで嗅いだことのない、でもなぜか知っているような匂い。
「コロニー内は全部地球に似せて作ってあるからそんなに変わらないと思うよ。まぁコロニーの外に出たら大変だけど」
日直の仕事が終わって帰ろうとしたら、たまたま下駄箱前で鉢合わせた夏海と一緒に帰ることになって、俺たちは並んでマンションまでの道を歩いていた。夏海のセーラー服の青いリボンがひらひらとはためくのが視界の隅に見える。
「翔太くんはコロニーの外に出たことある?」
「隣のコロニーになら行ったことあるけど、外界のほうは出たことない。というか出ても死ぬだけだよ。何もないから」
「そっかぁ……地球でいうところの樹海みたいな? あ、でも装備持たないと酸素もないのか、マジで死と隣り合わせだね」
「でも、そっちの海も似たようなものじゃない? 装備がないと酸素ないし」
遠くの子供たちの声に交じって夕方のチャイムが鳴る。もうすぐ空が夕景モードから夜景モードに切り替わるころだ。今夜は地球が昇るだろうか?
「まぁ確かに、似てるといえば似てる、のかな? でも海は生身でも酸素ボンベしてれば平気だよ。月の外界は生身だと一発アウトじゃん? やっぱレベル高いよ」
「あ、それもそうか。じゃぁ月のほうがレベル高いか」
そう言っておいてなんのレベルなのかよく分からないけど、夏海の言わんとしていることは何となく分かった。
「地球の陸地ってどんな感じなの? こことか海洋都市の中とあんまり変わらないの?」
「私も陸には住んだことないからよく分からないけど、街並みとか見た感じは変わらないかなぁ。あ、植物とか生き物は多いかも。コロニーもそうだけど、あっちのドームの中も色々持ち込み制限とか厳しくてさ、陸は悪い菌とかも多いから気をつけろって言われた」
「あー、中でパンデミックとか起こったらイチコロだもんな、俺ら」
コロニーの天井パネルが徐々に夕景の映像を映すのをやめて、窓のように暗い外の様子が見えるようになった。ああ、今夜は地球がよく見える。
「ね、見て。地球がきれいだよ」
「あ、ほんとだ! やっぱり地球ってきれいだね」
「夏海の家はどの辺?」
「えー、ここからじゃ分からないよ」
ケラケラと夏海が笑う。そろそろマンションが見えてきた。
「それじゃ、私こっちだから。また明日ね」
「うん、じゃあね」
ふわっと、あの不思議な匂いが俺の前から消える。なんだろうな、この懐かしい匂いは。

 翌朝、教室に着くなり隣の席の尊に背中をどつかれた。
「よお、お前昨日、夏海ちゃんと一緒に帰ったんだって?」
「え? ああ、そうだけど…」
「なんだよー、お前らいつの間にそんなに仲良くなってんの? え、なに? 付き合ってんの?」
「バッカ、そんなんじゃねぇよ。偶然、たまたまだって」
そんなことを言いながら小突きあいをしていると、不意にあの匂いがした。
「翔太くんおはよ」
「あ、おはよ」
「夏海ちゃんおはよー!」
「尊くんもおはよう」
夏海はニコッと笑って横を通り過ぎていく。そしてあの匂いがすっと薄くなる。
「……なぁ、あいつって、不思議な匂いしないか?」
彼女が十分離れてから声を落として尊に問いかけた。
「なに? 女の子のいい匂いしかしないけど?」
「……お前に聞いた俺がバカだったわ」
ペシッと尊の頭を軽く叩いて俺は席に座った。確かにいい匂いもするけど、その奥のもっと深いところに、それとは違う匂いがするのだ。うまく言えないけど。

「あ、また会ったね」
数日後、職員室に呼び出しを食らっていた俺は、人気のない下駄箱前でまた夏海と鉢合わせた。
「ちょっと職員室に呼び出されてて。あれ、今日日直だったっけ?」
「ううん、私は図書館に行ってたの」
「そっか」
靴を履き替えて校舎を出る。どちらも特に何も言わなかったけれど、何となく雰囲気で一緒に帰ることにした。こないだ一緒に帰った時も楽しかったし、今は特に誰かと話したい。
「呼び出しって、何か悪いことでもしたの?」
最初に話しかけてきたのは夏海だった。俺の顔を覗き込むようにして、ちょっとニヤニヤしながら問いかける。
「いやいや、そうじゃなくて。……交換留学の話。今度は俺が地球に行かないか、って」
そう答える俺の顔もちょっとニヤついていたかもしれない。
「え、すごいじゃん! いいよ、おいでよ!」
「うん、とりあえず親に相談してみるけど、もしかしたらなんか色々聞くかも」
「いいよーまかせて! 何でも聞いて!」
まだ確定ではないから、あまり喜びすぎないように抑えていたけど、本当は震えそうなくらい嬉しかった。だって小さい頃から夢だった地球行きが叶うかもしれないのだ。
「地球に行くのは初めて?」
「ああ。小さい頃からの夢だったんだ」
「そうなんだ! じゃあ夢が叶うんだね!」
夏海はまるで我が事のようにはしゃいで喜んでいた。
「いや、でもまだ確定じゃないから……。ねえ、やっぱり月に来るのって夢だった?」
「うん、私も小さい頃から夢だった。あのきれいなお月様に行ってみたい、って」
「きれいなお月様、か」
俺たちが童話で地球について聞かされたように、彼女も童話で月について聞かされていたのだろう。毎晩のようにその姿は見えるのに、そう簡単に手が届かない兄弟星。なんだかそれって……。
「あ、ごめん、私買い物しなきゃいけないんだ。今日はここでバイバイするね」
「え、ああ、分かった。気をつけてな」
「うん、ありがと、じゃぁまた明日ね」
まるで俺たちみたいだな、なんて思ってしまった自分に少しびっくりして、夏海の姿が見えなくなった後、何かを振り払うかのように頭を振った。留学のことで浮かれて頭がどうかしてるのかもしれない。俺も気をつけて家に帰ろう。

 その日の夜、両親に留学の話をすると、とても喜んでくれた。交換留学生として選ばれるにはそれなりに学力がないといけないから、優等生として選ばれたことが嬉しかったんだろう。地球に行く夢について親にきちんと話したことはなかったが、なんとなく伝わっているらしかった。まぁ部屋に地球の海のポスターを貼っているから無理もないか。俺は部屋に戻るとベッドに横になった。
「あ、そういえば」
夏海の連絡先をまだ聞いていなかった。これから留学について相談するかもしれないし、明日辺りに聞いておこう。

 翌朝、俺はテレビのニュースに釘付けになった。旧東京の海洋都市近くで大きな地震があったらしい。まだ詳しいことは分からないが、ドームの一部が破損して海水が流入し、生活区域にも被害が出たらしい。夏海の家は、夏海の家族は大丈夫だろうか。不安で詰まりそうな喉に無理やり朝食を流し込んで学校へと向かった。
案の定、教室に夏海の姿はなかった。担任は朝礼で、夏海の家族も被災したので急遽地球へ帰ることになった、と言った。そして朝礼の後で俺は廊下にそっと呼び出され、俺の留学先の学校も被災したため交換留学は中止になった、と伝えられた。その日一日、俺は夜の空より真っ暗な気持ちで過ごすしかなかった。

 チャンスが来ないなら自分から迎えに行くまでだ。ひとしきり落ち込んだ後、気を取り直して担任から夏海の連絡先を聞き出した俺は、夏海に家族の安否と手伝えることはないかとメールした。夏海の家は流入した海水に浸かってしまったが、幸いにも全員無事だったらしい。
「うちは大丈夫だから心配しないでね。翔太くんも良かったら地球に遊びにおいでよ」
社交辞令でも嬉しかったし、俺はその日からバイト代を貯め始めた。高校を卒業してからも、地球海洋学の大学に進んだことを口実に夏海とは連絡を取り続けた。そして大学二年の夏、俺はとうとう地球行きを決めた。今までのバイト代をつぎ込んだ2週間の一人旅だ。
 絶対地球に行ってやるという思いは、この数年ずっと変わらずに抱き続けていた。もちろん、小さい頃からの夢を叶えたかったが、正直言って夏海にまた会いたいという気持ちも大きかった。急な帰星でさよならさえ言えなかったし、夏海に対するなんだかモヤモヤした気持ちを、あれから消すことも捨てることも出来なかった。そのモヤモヤが好きだという気持ちだと認めるのに時間はかからなかった。だったら、会いに行こう。

 地球に着いて船を降りた時から、うっすらとあの匂いを感じた。そして空港のロビーで、少し大人っぽくなった夏海を見つけた。
「翔太くん!」
笑顔で駆け寄ってくる姿に胸が高鳴る。だめだ、冷静に、落ち着かなきゃ。焦る気持ちを隠しながら挨拶し、何気ない会話を続けた。
「実はずっと君から不思議な匂いがすると思ってたんだけど、地球の匂いだったんだね」
「匂い? ああ、きっと潮の匂いね。ここも海に近いから」
「潮の匂い、か」
月の海では知ることのなかった匂い。どこか懐かしく感じたのは、人類が地球で生まれたことをDNAが記憶していたのかもしれない。ロビーから外へ出ると、君の匂いがする柔らかい風が俺の頬を優しく撫でた。

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第7回Text-Revolutions テーマアンソロジー「海」投稿作品

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