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いつもとちがう

 その日,入ることになっていた保育所の2歳児のクラスには,話しかけてもどのくらいわかっているのかわからない,落ち着きなく動き回る子が複数いる,と聞かされていた。
 ところが,私が入ったとき,その子たちは,たしかにやや動きは多かったが,話しかけたことがわかっていないようすではなかった。簡単な言葉のやりとりは成立するし,私がそばについている限り,一つの遊びをある程度続けることができていた。
 保育現場では,私のような「お客さん」がきたとき,子どものようすがふだんと違うことはよくある。ふだんは集団からはみ出がちな子が,私が見ているときにはほとんどはみ出ることなくみんなと一緒の活動ができたりする。
 だが,その2歳児クラスの子どもたちの場合は,そういうのとはちょっと違う。先生方はその子たちを、言葉のやりとりが成立しにくい,話しかけても理解の難しい子どもなのではないかと思っていたようだった。それが,私との間ではやりとりが成立していたとなると,先生方が子どもの姿をとらえ損ねていたのかもしれないということになる。
 私はときどき「人見知りする子なんです」「男の人が苦手で」という小さな子どもを初対面であっさり籠絡できるときがある。私のその特技を知る友人からは,その技を言語化して他の人に伝えられたらよいのにと言われたことがある。実際,それは私自身にもうまく言語化できない名人芸のようなところがあって,系統的な説明はできそうにないのだが,私がぼんやりと認識しているのは,応答的にふるまうタイミングをつかむ(人見知りする子にはいきなり応答的にいかないほうがいいことが多い)ということと,大人からすると何が面白いのかわからないことでも子どもが面白がっていることを一緒に面白がってみること,くらいだろうか(それができるのは私の精神年齢が幼児レベルだからなのかもしれない)。
 普段の保育がどんな様子かは,わからない。だが,その日見えていた範囲では,先生方は保育室のこちらにブロック,そちらにクレヨンと紙,あちらにままごと道具,というように「もの」を出して,子どもたちが好きな遊びをできるように環境を作っているのはわかった。問題は,そのやり方がその子たちにあっているかどうか,ということだろう。
 そんな姿を初めて見たと先生方に驚かれた2歳の子どもたちと私がやったことは,ただそばにいて「子どもとともにあろうとする人」として応答的に振る舞っただけである。ところが,それでどうやら担任の先生方が知らないその子たちの姿を引き出してしまったらしい。
 2~3歳くらいだと,友だちと遊ぶよりも大人と一緒に遊ぶほうが楽しいということがよくある。おそらく,そのクラスの担任の先生たちは,もうすこし「もの」を介在しないで大人とのやりとりを楽しむような遊びを意識的に取り入れたほうがいいのではないか,という感じがした。
 いつも集団からはみ出る子が,お客さんがいるときにはみ出ないで過ごせるなら,条件さえ整えばその子はそういう力を発揮できるということなのだ。「できない」部分ではなく「できる」部分が見えてくるのなら,私のような部外者がときどき現場に入り込むことも多少は意味があるのかもしれない。

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