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もう一人の「開拓の祖」

 帯広市総合体育館の駐車場と帯広警察署の境界あたりに、「十勝開拓の祖鷲見邦司翁顕彰碑」という石碑が立っている。
 十勝で「開拓の祖」といえば、まず最初に名前が出るのが依田勉三である。そして、勉三とともに入植した渡辺勝や鈴木銃太郎など、晩成社の仲間たちの名前が挙がる。だが、鷲見邦司という名前は、その石碑を見るまで知らなかった。
 依田勉三の他にも十勝に入植し開拓の先鞭をつけた人や団体はいくつもある。勉三の名前がことさらに有名になっているのは、いくつかの要因があると思う。十勝の中心都市である帯広の最初期の入植者であること、依田勉三が率いた晩成社が(屯田兵などの役所主導の開拓ではない)民間主導で開拓を進めたという十勝開拓物語の象徴になっていること、結局は軌道に乗らなかった晩成社の事業が依田勉三という不屈の人の挫折の物語であること、その物語を背景に六花亭製菓が「マルセイバターサンド」など依田勉三にちなんだ有名商品を出していること(バターサンドほど有名ではないが「ひとつ鍋」も勉三がらみ)、など。
 鷲見邦司は、岐阜の出身で、北海道庁殖民課の役人として十勝に赴任した人。本州からの入植希望者の窓口となって、開拓地の払下げなどの仕組みを整えるなどしたらしい。出身地の岐阜で濃尾地震や長良川・揖斐川などの水害が起きると、被災した人たちの十勝への入植の世話をしたりもしたようだ。
 鷲見の名前でググってみると、岐阜県立図書館のサイトで、「岐阜市合渡の歴史」という郷土資料の目次だけ見ることができた。その中に「濃尾大地震」の項があり、「鷲見邦司の活躍」という見出しが見える。
 旧合渡村は、現在の岐阜市西部の、天王川、伊自良川が長良川に合流する付近にあたる。暴れ川として知られる木曽三川沿いの、いかにも洪水が起きそうな地形の場所である。当時洪水は頻繁に起きていて、1891年,そこに追い討ちをかけるようにM8.0の巨大直下型地震が壊滅的な被害を出した。濃尾地震の第一報が「ギフナクナル(岐阜なくなる)」であったというくらいのとてつもない被害だったとか。
 村落が丸ごと消滅するような自然災害というと,新十津川に入植した奈良県十津川村の例を思い出す。新十津川以外にも,明治時代,全国で,災害で大きな打撃を受けて,新天地を求めて北海道に入植した例がたくさんあった。帯広市の南部にも「越前」や「加賀」「越中」「別府」(岐阜県)など出身地の名前のついた開拓集落跡がいくつもある。これらも災害がらみの移住らしい。このような移住の中には,鷲見邦司が関わっていたものがいくつもあった,ということなのだろう。
 依田勉三の有名さに比べて,鷲見邦司の名前はやや影が薄い。だが,人口に膾炙する「民」による開拓という十勝開拓物語の裏で,鷲見は「官」の側で裏方を務めた立役者だったようだ。

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