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鎮西八郎と九郎判官

 Facebookで「疱瘡絵」を見かけた。時節柄、疫病避けである。仇なすものを斥ける魔除けには鍾馗などの鬼神が描かれることが多いものだが、たまたま目に入った疱瘡絵には源為朝が描かれていた。
 為朝という人は、源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる人物で、「鎮西八郎」という二つ名がある。ごく若いころから乱暴者で、手を焼いた父(頼朝・義経の祖父にあたる源為義)が為朝を九州の親戚に預けたら、九州を平定する勢いで暴れまわって「鎮西」を自称したとか。「八郎」は為義の八男だったかららしい。
 剛弓使いの偉丈夫として数々の伝説が残る為朝だが、保元の乱で敗れて伊豆大島に流された。そこでも実質的な支配者となって、討伐軍を差し向けられ最後は自害したとされる。とてつもなく強い武士だったが、「悲劇の英雄」的な存在だったようだ。
 後に曲亭馬琴が為朝を主人公にして書いた「椿説弓張月」では、伊豆大島から琉球に流れ着いた為朝がもうけた子が、琉球王朝の祖・舜天になった、という筋書きになっている。琉球にもそういう伝説が残っていたらしい。
 「悲劇の英雄」が討伐を受けて落ち延びた、という物語では、為朝の甥・源九郎判官義経のものがよく知られている。義経の兄・頼朝の圧力に耐えられなかった藤原泰衡から攻められて衣川で自害したとされる義経が、実は生き延びて蝦夷地に渡った、なんならサハリン経由で大陸に渡って、モンゴル帝国の祖、チンギス・ハーンになった、とか。
 北海道のあちこちに、義経伝説が残っている。私が行ったことがあるのは、新冠の判官館、平取の義経神社、本別の本別公園くらいだが、たいていのところで、義経がアイヌの娘と懇ろになったとか、アイヌからカムイ(神)と呼ばれていたとかの逸話がある(このへんは和人があとから作ったんじゃないか,という気もしなくはないが)。
 琉球王朝の祖が清和源氏の血筋であるというような話は、琉球を支配したい本土側には都合のいいものだったろう。アイヌの英雄神オキクルミが実は和人であるというようなのも、和人がアイヌを支配下に置くには好都合な話だ。
 英雄や神様を支配に都合のよい物語に組み込むというのは,世界中でおこなわれてきたことなのかもしれないが,支配と抑圧の道具に使われる「英雄」側にとっては迷惑なことだろう。

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