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哲学、ここだけの話(民衆の歌)

レミゼラブルというミュージカルがあります。もちろん原作はユゴーですが、今ではミュージカルの方が有名でしょう。

その中の有名な曲に、人々に向かって革命に参加せよと歌う「民衆の歌」というのがあります。階級社会であったそれまでのフランスを、民衆が蜂起して、王政を打ち倒すというのがフランス革命です。

ウクライナに向けて、この曲をブロードウエイの人たちが歌っている。ところが、その映像に寄せられる日本人のコメントには「人々は平和を望んでいるのだ」というものが多い。もちろん歌詞には、革命の後にやってくるであろう世界も歌われているのですが、それはひたすら平和を歌う歌ではありません。そうではなくて、革命のために蜂起せよという歌なのです。

この曲がウクライナに向けて歌われている意味は何か。革命は、血を流すものです。少なくともフランス革命は、日本人が思っているようなものではありません。既存の秩序が完全に崩壊し、無秩序な社会が出現し、革命のリーダー達すら、断頭台に送られたのがフランス革命です。この革命時に作られた人権宣言は、その後、世界中の憲法のモデルとなりますが、人権を何よりも大切だとする考え方が歴史の主流になるのには、ものすごい数の血が流れたのです。

そしてこの「民衆の歌」もまた、そういう武装蜂起の歌なのです。それは日本人が考えるような、「平和の歌」ではない。

自由や権利は、戦わずして手に入るものではない。それは、欧米人の常識です。それが良いかどうかは別にして(と言っても私自身はそれが良いこととだと考えています)、彼らの常識であることは確かです。他方、日本人は、自由や権利のために戦いません。ここでいう「戦う」は、軍事的なものに限らず、政治的、社会的な意味も含みます。日本人の多くは、自らの自由や権利のために、社会的にすら戦わない。もちろん日本にも、自由や権利のために戦っている人たちがいるのですが、世の人々は、それを知らない。自分たちの自由や権利を守るために戦っている人たちがいることを知りもしない。いや、知らないどころではない。自分のために戦っている人々を攻撃する人が少なくない。

なぜか。「戦う」ことが善くないからです。悪だからです。とにかく「人を攻撃しないこと」が善。日本人が考える「善い人」というのは、絶対に人ともめ事を起こさない。何をされても、何を見てもニコニコしている人。つまり従順な人。とにかく温和な人。もちろん不正に対して立ち上がっている人々を描いたドラマなどを見て、「頑張れ」と応援する人は少なくありません。しかしそれはドラマの中だけです。レミゼラブルを見た人の多くは、最後の武装蜂起のシーンに感動したりするのでしょうが、自分が何に感動しているのか、おそらくは分かっていない。

すべては舞台の上の事柄、スクリーンの向こう側の事柄なのです。

「いのちよりも大切なものはない」と多くの日本人は言います。しかしそれが世界中の常識でないことは、知っておく「べき」です。今現在、「私たちは自由のために戦っている」と言っている人々を見て、「いのちは何よりも大切だ」という感想を言う人たちがいる。自分たちがそう「思う」のは構いません。しかし自分たちの価値観で、スクリーンの向こう側の人々を「語る」のだけは止めた方が良い。

これは、恐ろしく「原理的な問題」です。その結果、この国では、「絶対に」人々はそれを問題にしない。差別や格差などといった問題に取り組めば、自ずと現代社会の仕組みと「戦う」しかありません。そして実際に戦ってきた人々は、今、世間が「ウクライナの人々を助けよう」と言っているのを見て、悲しんでいます。どうして、ウクライナだけが注目されるのか、と言って、悲しんでいます。さらにいえば、その「ウクライナを助けよう」という言葉もまた、ウクライナのことをまるで理解せずに口にしている。

今、日本で「本当に戦っている」人々は、自分たちが戦っている相手の巨大さを見せつけられている気分でしょう。しかしだからといって戦うのを止めるわけにはいきません。「本当に大切なもの」を知っている人は、それを放棄できないからです。

「いのちは何より大切だ」と言っている人々のうちのどれだけが、それを「本当に大切なもの」と思っているのでしょう。そしてそれは、自分でちゃんと「本当に大切なものは何か」を考えた末の結論なのか。「いのち」を考えた末の結論なのか。この国の哲学の現状を見る限り、とてもそうは思えません。

若者に向かって「考えよ」と言い続けるのが、私の戦いです。


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