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哲学、ここだけの話(神の言葉の無意味さ)

意味が分かる人間がどこにもいない場合、その文章は無意味とされる。

(もしも神が存在するとしても)神の言葉は、厳密には神にしか理解できない。

つまり神以外には無意味である。

人間に分かる思想しか持たないのであれば、神は神ではない。

では、私たちは、ある種の言葉をなぜ神の言葉だと判断するのか。

判断できるわけがない。

それが、神に「しか」理解できない思想であれば、人間に理解できるはずがない。これは単なる同語反復だ。つまり疑いようがない。

たとえ聖書が神の言葉だとしても、それを読むのは人間であって、神ではない。つまりそれが神の言葉であるとするなら,それを本当に理解できるのは神だけであり、人間には永遠に理解できない。(だからこそ理解する努力を続けなくてはいけない、という論は百も承知だが、それはやはり裏を返せば理解できないということである。)

それが単なるお話なら、それはそれでよい。しかし聖書はそうではない。それは何十億という人間の人生を左右する書物である。

聖書は、学術書ではないので、読む人の読み方次第でなんとでも読める。それは、この宗教の歴史が証明している。

つまり、それは「唯一絶対の」真理を表明してはいない。様々な読み方を可能にするのが聖書という書物だ、という者もいる。読み手の数だけ読み方があるのだと言う。では、神の語る真理も、多様なのか。

この百年ほどの間に、聖書の成立についての知見が豊かになったが、そうした知見は、「聖書は神の言葉である」という世間のイメージとはまるで相容れない。そう、普通に考えれば、聖書は、様々な人間の都合で書かれた「人間の言葉」である。

もちろんその言葉の向こう側に、うっすらと本物の神の言葉が見え隠れしているのかもしれない。しかしそれをより分ける術を私たちは持たない。たとえより分けることが出来たとしても、上述のハードルをクリアすることは不可能である。

もちろん、こうしたことは、「神の言葉」と称する書物のすべてに言える。

そこにあるのが神の言葉だとしても、それを読むのは人間である。常に人間である。

神は、本当の意味では、神としか「対話」しない。神の言葉が本当に理解できるのは神だけだからである。これは当たり前ではないのか。

神がいるとしても、神は孤高の存在であり、その言葉を理解する者はいない。つまり人間世界に神の言葉は存在しない。

したがって「これは神の言葉である」と語る人間は常に虚言者である。

もちろんこうした指摘に対して、様々な反論があることは承知している。しかしそれらの反論は、すべて「屁理屈」である。なぜなら、この議論に反論するためには、「神の言葉を正しく(つまり神の知性でもって)理解する」という前提が必要だからであり、それは人間には不可能だからである。

<ここに記した文言がもし正しければ、そして人類がそれを正しいとするならば、世界の歴史は変わるだろう。この言葉の意味を理解する者がいたとしての話だが。拙著は、こうした結論を提示しているのだが、それを読み取る人間は残念ながらこの国にはいないようである。>




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