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哲学、ここだけの話(自由と哲学)

学校、school の語源は、余暇です。古代ギリシアの場合、余暇を生み出したのは奴隷制ですが、いずれにせよ、自由な時間がなければ、自由な思索は成立しません。

近代に入ってカントは、思想の自由を語るにあたって、理性の私的利用と公的な利用を区別しました。「私的利用」と聞くと、個々人が自分の好き勝手に使うといったことをイメージするでしょうし、「公的利用」と聞けば、公共的な問題を扱う政治的な場面をイメージするでしょう。しかしカントの用法は、私たちにとってかなり意外なものです。

カントは、政治的な局面で理性が用いられる場合、それを「理性の私的利用」と考えます。公共の問題を論じているはずなのに、私的利用と言う。では、彼が考えた「公的利用」とはどういう場合を言うのか。それは学問の世界、学者たちが、あくまでも学問的に問題を論じる場合だけ、公的利用と言えると考えます。

政治的な局面では、政治家は、何らかの利害関係のうちにあります。理性、もしくはその思考は、何らかの利害に左右される。それどころか、公共性を問題としていると言いながら、そこで論じられていること、そこで主張されていることのほとんどは、特定の集団の利害です。

地球温暖化という問題は、紛れもなく、地球規模の問題であり、特定のグループの利害で論じられてはならないはずですが、現実には、その問題への対応は、国ごとに大きく異なります。したがって、その問題の「考察」に、政治家の議論は役に立たない。その問題に、各国の利害を超えてアプローチできるのは、そういった政治的な立場から自由な科学者だけです(残念ながら、現代では、そういった「本当に自由な」科学者は見つけるのが難しいようですが)。

自然科学ですらこうですから、人文学ともなると、もっと党派的な思考が目立つようになります。政治家の行う政治とは別の「政治」が、学者の世界でも幅をきかすようになる。もちろん学者のすべてが、そういった「政治」に関心があるわけではありません。しかし「関心がないこと」と「その影響から自由であること」は別です(この点は、現実の政治とまったく同じ)。むしろ関心がないと、自覚がないことになって、かえってその影響をもろに受けるということにもなります。結果的に、多くの無関心が、現実の政治を最も大きく左右することになる。

カントが言う「理性の公的利用」は、それに自覚的でなければ実現しません。本当の自由は、「自分を縛っているもの」を自覚することなしには成立しません。しかしひとは、たいてい、自分を縛っているものを知りません。「私は日本人だから、日本人として語る」と言うひとは、「日本人であること」に縛られています。その制約を離れては思考できないのであれば、その思考は不自由です。たとえ、その本人が、自分は自由だと確信していても、その思考は不自由です。

こうした党派性、不自由から、思考を強制的に解放する手段の一つが、形式論理です。人類史上初めて、形式論理の体系を仕上げたアリストテレスが万学の師と呼ばれるのは偶然ではありません。学問ということを考える場合に、こうした普遍性を持つ論理は欠かせません。論理が logic であり、その語が、ロゴスから来ているのは偶然ではない。

論理には、恣意が混じってはならない。それは当たり前のことですが、残念ながら、そのことを心の底から理解している学者も稀でしょう。

ホルクハイマーは、道具的理性ということを言いましたが、それはカントの言う「理性の私的利用」にあたるでしょう。「何かのために」理性を用いる。しかしそれは、現代人にとっては当たり前のことです。私たちが思考するのは、何かを実現するためだ。特定の意味のために思考する。それはあまりにも当たり前のことなので、意味が見いだせない思考というものが考えられなくなる。哲学の世界ですら、道具的理性が幅をきかす。 

真理の探究を妨げる最大の要因が、こうした理性の道具的利用でしょうが、私たちは、それを忘れる。

私がエックハルトに「真の哲学者」を見いだしたのは、彼が「自己からの離脱」こそが真理への道だと考えていたからです。自己からの離脱、自己からの解放こそが、実は真の自由である。そしてそうした自由こそが、真の思考をもたらす。

私たちが自由と呼んでいるものは、多くの場合、欲望への隷属であり、理性を解放するどころか、強く縛るものです。プラトンは、「哲学は死のまねび」と言いましたが、その言葉の持つ意味を理解している現代人は、とても少ないようです。


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