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陸前高田市を思い出した日

もうすぐ東日本大震災から8年目を迎えます。

8年前のその日、私は社会福祉協議会で研修会を主催していました。新潟県でも大きな揺れを感じ、当然のことながら研修会は中止。津波に飲まれていく橋や家屋の様子をテレビで観ながら、非現実的な光景に震えが止まらなかったことを覚えています。

その夜、大学時代の先輩が出張で新潟に来ており、新幹線が動かず帰れなくなったということでお酒を酌み交わしながら、しかし思い出話に浸ることもできませんでした。

翌日、社会福祉協議会に出勤し落ち着かない時間を過ごしていると、当時の上司から「井上さん、現地に行けますか?」との声がけ。私は恐怖感もありましたが、即座に「もちろんです」と回答し、数日後には関東ブロックの災害支援協定を結んでいた静岡県の職員と共に岩手県に向いました。

先遣隊は広範囲に渡る被災地を分担することとなり、私は岩手県陸前高田市へ。当時23,000人ほどの人口で、8,000人のみ安否確認が取れているという状況でした。跡形もなくなった市街地の様子は今でも鮮明に思い出せます。現地では社会福祉協議会協議会の機能回復や、ボランティアセンターの立ち上げに向けた支援などに携わりました。とにかく必死でしたし、記憶も曖昧なところがあります。ただ、昨日までそこにあったであろう生活の名残や、流された子供のランドセルなどが目に入ってくると、急に現実に引き戻されて嗚咽や震えが込み上げきました。

思えばそれまでも薄ボンヤリと政治の道を考えてはいましたが、それが確固とした思いに変わったのは陸前高田市での経験からかもしれません。自分の無力感に打ちひしがれながら、しかし自分にできることがもっとあるのではないか、守れる命があるのではないか。生きている自分は、生かされている自分はもっと一生懸命に生きなければいけないのではないか。8年間常にそんなことが心のどこかにあったと思います。

トップの写真は、3回目にボランティアバスを引率した際の写真。昨日、新潟市内の清掃会社にごあいさつに伺ったところ、陸前高田市の写真が何枚も貼られていました。その清掃会社は何年にも渡って陸前高田市の支援活動に携わっていたそうです。

冒頭にも書きましたが、東日本大震災からもうすぐ8年のこの日に、陸前高田市を思い出したこと、そして新潟で陸前高田市を通じたご縁をいただいたこと、自らの政治の原点に立ち返れたこと、不思議な巡り合わせでした。そういえば、数年前に息子と二人で当時のご縁を辿って東北各県に行きましたが、また行こうかな。

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