自称・宗教学者、島田裕巳氏のいい加減さについて

記事を読んで驚いた。「調べもしてないやん」

2023年11月15日、創価学会の池田大作名誉会長が逝去された。私の立場は会員で、会内では近年、聖教新聞を中心に池田先生という呼称が公式に使用されるようになっているが、客観的な立場での記述に努める意味で名誉会長と表記する。

さて、驚いたというのはこの記事(以下、当記事)のこの部分。

老いと死を語ること無いままに
池田氏は、晩年、会員の前に姿をあらわさなくなったわけだが、それは老いた姿をさらすことがなかったことを意味する。そのためだろうか、宗教家として老いや死を見つめるような論考を発表することがなかった。
そもそも、池田氏の師である戸田城聖の思想の中心には独自の「生命論」があった。戸田が会員たちに強調したのも現世利益の実現であり、いかにこの世において幸福を実現するかであった。その点で、創価学会全体に、死の問題や死後の魂の行方についての関心は乏しい。

現代ビジネス「「Xデー」来たる・退潮の創価学会を残し一代のカリスマ池田大作氏逝去~自民党への選挙協力はもはや潮時か」

驚いた点はいくつかあるが、主にこの2点について。
1)この人は何も調べも読みもしていない
2)この人は宗教について何を学んできたのだろうか
3)プロフィールを見ると「宗教学者・作家」とあり、著書に「創価学会」等とあるが、当記事の杜撰さをみるに、氏の著作を読む前から内容の無さ(悪意、恣意的な内容)であることが推測される

まず、(3)についてはこの島田裕巳氏について個人的に調べも何も読みもしていないので、あくまで「当記事の内容から推測するならば、信用できそうにない」というに留める。関連書籍を仮に読んでみたら案外信用できるものかもしれないが、会員として事実関係と当記事を比べる限り、その可能性は微塵も感じられない。

創価学会が仏教、日蓮の南無妙法蓮華経を拠り所とする在家団体ということを知っているのか?

結論からいうと、創価学会の信仰、それ以前に仏教そのものが、根本的に「老いと死」の概念なしには話が進まない。

これは、信仰の有無を問わず、一般教養でもある程度の学識があれば心得ているところと思うが、そもそも釈迦牟尼世尊(釈尊)がなぜ故出家し、悟りを得、仏教(「仏の教え」)を説き始めたのかというところから出発する、根幹の問題に遡る。

四門出遊、四門遊観

四門出遊(しもんしゅつゆう)は、釈迦が29歳の太子(ヴィパッシン王子)の時、王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにして、苦諦に対する目を開き、出家を決意したという伝説。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伝承上の仏教の出発点として、「生老病死(しょうろうびょうし)」の克服こそが釈尊の出家の根本動機であるのは宗教学者でなくても知るところである。「四苦八苦」の「四苦」であり、この言葉だけならもはや日本人の慣用句としても知られる。

つまり、「老いと死」は仏教を習い実践する者にとっては出発点であり、ある意味終着点(生老病死の克服≒釈尊の言わんとしたこと、課題)そのものでなのであり、これを語らずして仏教は始まらないのである。

従って、池田名誉会長がこれらに言及していないわけはないのであり、公平な視座を持つ宗教学者であればこの視点から「池田氏は仏教における四苦の克服についてどう考えているのか」との疑問を持つのが自然で、調べ、学び、考察することが学者たる本業ではないのかと考える。

創価学会=在家仏教団体、という認識はあるのか?

創価学会は、元は日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の在家団体として、初代会長・牧口常三郎、二代会長・戸田城聖が入信したところに端を発する。

こうした経緯から、創価学会の拠り所とする「本尊」は、日蓮建立の、中央に「南妙法蓮華経 日蓮」と認められ、周囲に法華経に説かれる説法の参加者をはじめとする諸仏・善神を列記した曼荼羅本尊であり、教義は日蓮の遺文集(御書)であって、歴代会長の立ち位置は「これらの教えをどのようにして学び、実践していくのか」を説いた「講師」であり、「師匠」である。(=教祖、ではない。)

つまり、会としての発足は創立記念日の昭和5年であり(当時、創価教育学会)、定義の上では「新宗教」に分類されるものの、実態は日蓮〜直弟子の日興の流れを汲む伝統仏教を実践する在家団体なのである。

https://www.sokagakkai.jp/about-us/history.html

であれば、繰り返しになるが、「老いと死について語らない、触れない」などということはまずないと考えるのが自然であって、「では、創価学会は老いと死についてどう考えているのか」という思考に至り、調べてみるのが〝宗教学者〟を名乗るのなら自然であると思われるが、島田氏はそうではないらしい?

創価学会の根本の教書、御書(日蓮の遺文集)における「老いと死」について、どうもご存知ないみたいなので島田裕巳氏にお伝えしたい

日蓮の遺文(御書)に、次の一説がある。

人の寿命は無常なり。(中略)かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習いなり。されば、まず臨終のことを習って後に他事を習うべし

妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)

「人の寿命には限りがある。これはどんな人間にも平等に与えられた摂理である。であるならば、まず死について探究したのちに他のことを学ぼうと思う」(趣意)

そして、この御書についての池田名誉会長の講義が、以下(抜粋)の通り。

死について、島田氏が「池田大作氏が語っていない」「創価学会全体に、死の問題や死後の魂の行方についての関心は乏しい」と指摘する、しかし実際は語っていて、創価学会の信仰の根本概念となっている内容である。機関誌「大白蓮華」に掲載されたもので、学者が調べようと思えば辿り着く内容である。

「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯
 「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」
 仏法は、一生のうちに成仏を実現し、永遠に自在して希望に満ちた生と死を続けることを可能にする大法です。
 「生も歓喜」であれば、「死も歓喜」となります。「死も歓喜」であれば、次の「生も歓喜」です。生死ともに歓喜の連続であり、自他ともの歓喜を現実のものとする使命に生きる生命の真髄を教えています。

1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)2007:12月号大白蓮華より。先生の講義

霊鷲山とは「永遠の生命の故郷」
 霊山浄土といっても、念仏の西方極楽浄土のような架空の別世界のことでは絶対にありません。
 端的に言えば、霊山浄土とは、大宇宙の仏界そのものです。「一身一念法界に遍し」(0247:08)とあります。妙法を受持しきって亡くなった人の生命は、宇宙全体を我が生命とする。広大無辺の境地となって、大歓喜の境涯に包まれていく、そのことを戸田先生は「大宇宙の仏界に溶け込む」と言われました。
 大聖人は繰り返し仰せです。
 「ともに霊山浄土にまいり、お会いしましょう」
 「必ず母と子がともに霊山浄土へまいることができましょう」
 妙法への信心を生涯、貫き通した人が、等しく到達できる仏の世界。 それが霊山浄土であり、そこでは、深き生命の次元で結ばれた師弟が、同志が、また、親子・夫婦・家族が、晴れ晴れと出会うことができるのです。

1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)2007:12月号大白蓮華より。先生の講義

生きているうちに、この境地に基づいて仏界を現して、現実の苦難の使命の舞台に雄々しく立ち上がり、自他共の幸福を築いていく、それが「生の仏」です。
 そして、使命を果たしきって、三世永遠の自受法楽の軌道に乗り、さらなる誓願の現実のために、次の菩薩道の生へと向かっていく。それが「死の仏」です。
 この「生死ともに仏」「生死ともに歓喜」の大境涯を確立するための今世の一生です。否、今世の一生の瞬間瞬間の闘争です。
 大聖人は「若し能く持つこと有えば即ち仏身を持つなり」と経文を引かれています。この経文通りに南条兵衛七郎は戦い、一生の間に仏の境涯を確立したからこそ、永遠の仏界の生死の軌道に乗った。
 “あなたの亡くなった夫は、まさに法華経に示された通りの「仏様」なのですよ”ご主人は勝ちました! 今度はああたが勝利する番ですよ! と、呼びかけておられるのです。

1504~1506 上野殿御家尼御返事(地獄即寂光御書)2007:12月号大白蓮華より。先生の講義

世界観、理解の度合いはここではさておくとして、宗教学者であり、なかんずく著書に「創価学会」に関するものを複数執筆している立場の身として、こうした事実をあたかも無かったかのように

老いと死を語ること無いままに
池田氏は、晩年、会員の前に姿をあらわさなくなったわけだが、それは老いた姿をさらすことがなかったことを意味する。そのためだろうか、宗教家として老いや死を見つめるような論考を発表することがなかった。
そもそも、池田氏の師である戸田城聖の思想の中心には独自の「生命論」があった。戸田が会員たちに強調したのも現世利益の実現であり、いかにこの世において幸福を実現するかであった。その点で、創価学会全体に、死の問題や死後の魂の行方についての関心は乏しい。

現代ビジネス「「Xデー」来たる・退潮の創価学会を残し一代のカリスマ池田大作氏逝去~自民党への選挙協力はもはや潮時か」

などと臆面もなく記述できるとは、甚だ驚くばかり。リサーチをする気もなく、イメージだけで記事を書いているからこうした杜撰な内容になるのだとしか思えない。恣意的とはこういうことをいうのだと思う。

島田氏の「宗教家として老いや死を見つめるような論考を発表することがなかった」という内容を、ハーバード大学で発表している事実

https://www.sokagakkai.jp/picks/1921729.html#:~:text=講演の冒頭、池田SGI,を真正面から論じた%E3%80%82&text=生あるものは必ず,となってきました%E3%80%82&text=何よりも死によって、人間,されるからであります%E3%80%82

大乗仏教の生死観「生も歓喜 死も歓喜」
1993年9月24日。ハーバード大学イェンチェンホール。
アメリカ東海岸の名門大学から150人を超える幅広い分野の研究者が集った。
歴代大統領のブレーンを務めた「経済学の巨人」ジョン・ガルブレイス博士が、コメンテーターを務めるなど、この講演は注目を集めていた。
講演の冒頭、池田SGI会長は、「生も歓喜 死も歓喜」とする大乗仏教の生死観を真正面から論じた。
  
池田SGI会長
生あるものは必ず死ぬという生死。 死の問題こそ、古来、あらゆる宗教や哲学が生まれる因となってきました。
なぜ、人間にとって死がかくも重い意味をもつかといえば、
何よりも死によって、人間は己が有限性に気づかされるからであります。
どんなに無限の「富」や「権力」を手にしても、そうした人間であっても、いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。
池田SGI会長がこの講演で、生死の問題を取り上げたのはなぜだったのか--。

1989年、ベルリンの壁が崩壊し、長く続いた東西冷戦が終結。
1991年にはアメリカが湾岸戦争に勝利する一方、社会主義の盟主・ソ連が崩壊。
アメリカ社会は、一種の高揚感に包まれていた。

ハーバード大学講演  21世紀文明と大乗仏教

池田SGI会長
「死を忘れた文明」といわれる近代は、この生死という根本課題から目をそらし、死をもっぱら忌むべきものとして、日陰者の位置に追い込んでしまったのであります。
ヌール・ヤーマン教授
なぜ人々は「死」の問題から目を背けるのか。
それは、消費主義の社会のせいです。今のメディアの構造は、私たちを今日・明日にのみ目を向けさせ、未来については考えさせないようにしているのです。
池田SGI会長
その結果、現代人は死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようであります。今世紀がブレジンスキー博士の言う、あの「メガ・デス(大量死)の世紀」となったことは、皮肉にも「死を忘れた文明」の帰結であったことは、間違いないようであります。

SGI会長は、20世紀が戦争と殺りくの世紀となった根本的要因を「死から目をそらすことにある」と喝破したのである。

ハーバード大学講演  21世紀文明と大乗仏教

「老い」につても、調べればすぐにわかること

島田裕巳氏が「池田大作氏が語らなかった」という「老い」についても、Google検索で「池田大作 老いについて」と入れれば以下の内容を調べることができる。上位3番目ほどに出てくるもので、小学生でも「調べる気があれば」調べられるものだ。

「聖教新聞」に連載した「『第三の人生』を語る――高齢社会を考える」は、そうした時代と社会を眼前にして、喫緊の課題をさまざまに論じたものである。
 高齢の方々が、人生の最終章を悠々と総仕上げするためには、二つの側面があるように思う。
 まず高齢者自身の課題。晩年になればなるほど、本人の生き方、信念が問われる時代に入ったといってよい。
 そして高齢者を支える社会の在りようであろう。
 原始仏典スッタニパータは言う。「あるいは母を、あるいは父を、衰えたるを、老いたるを、みずから生活豊かなるも、これらの人々を養わざる人あり。これほろびの発端なり」――。
 高齢社会の真の繁栄は、高齢者を尊ぶ気風の確立と、密接に関わってくるように思える。このへんも、意識して論じたつもりである。
 とまれ、師の戸田城聖先生(創価学会第二代会長)は「人生は最期が大切だ。途中ではない。最期の最期が幸せで充実していたら、その人生は勝利だ。願わくは、夕日が荘厳に沈むような晩年でありたい」と、口癖のように言われていた。

「第三の人生を語る」(池田大作全集第61巻)

このように、創価学会においてはむしろ「老いと死」をどう受け止めるか、という視座を持つ人生観を探求し、自身が体得していくことが基本の教えとなっているのであって、

創価学会全体に、死の問題や死後の魂の行方についての関心は乏しい。

「Xデー」来たる・退潮の創価学会を残し一代のカリスマ池田大作氏逝去~自民党への選挙協力はもはや潮時か

という断定的なミスリードは、悪意なのか単なる杜撰なのか、いずれにしても誠意のかけらも感じられないし、宗教学者を名乗ってほしくない。事実は事実、学者なら調査、探究、考察、それも社会貢献的な善意を発露とするべきで、よって、これに値しない島田裕巳氏は個人的には「自称・宗教学者」程度にしか認められない。

したがって、「平気でメディアに適当なことを書いている」という実態を目の当たりにすると、氏の記述する文章・記事全般の信頼性は乏しく、至極残念でならない。よって、宗教学者としての資質に疑問を持たざるを得ず、「自称・宗教学者 島田裕巳」氏と今は呼ばせていただくことにする。

また、掲載された媒体の「現代ビジネス」誌も大概である。こういう記事を書く島田氏をあえて起用したのか、結果的にこういう内容になったのか、いずれにしてもジャーナリズムよりインパクト重視で事実関係はどうでもいいという姿勢が、当記事が同メディアから世に出ているということから感じざるを得ない。


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