人生の残り時間は体感でどれくらいか


生5,9,18,18,18,20,20,20,20,20,20,21,21,21,22,22,23,24,25,28,31,32,35,36,50,65死

 今年の夏は特に厳しかったが、最近、すっかり朝晩は涼しくなり、秋めいてきた。職場の同僚と、秋は短いからねと話しながら、私は去年もその前の年も、毎年同じように秋の短さを嘆いてきたことを思い返す。私はきっと来年も、再来年も、秋の短さを嘆き、そしていつか死んでいくのである。

 そんなことを考えると同時に、私はまた、時間の体感についても考える。たとえば私は10年前、大学生であった。コロナという特殊事情を抜きにしても、私は10年前のことが非常に最近のことのように思えてならない。一方、私が大学生の時、10年前である小学生のころの記憶は遠い彼方にあったように思う。昔の10年と今の10年は、間違いなく同じ10年でありながら、まるで我々を惑わし弄ぶ錯視のように、その長さが異なるように思えてならない。きっと来年も秋の短さを嘆くとき、同時に私は1年が過ぎ去るのが早いことに驚くのだろう。

 この個人が感じる時間的な体感については、ジャネーの法則という説がある。10歳の人が感じる5年は人生のうち50%であるが、20歳の人が感じる5年は人生の25%である、といったように、ある一定の時間の体感はその生きてきた長さに反比例して短くなっていくという説である。これには物心のついた年齢を何歳に定めるかといった定義の仕方でいくつかの考え方に分かれるが、一般に納得されやすい説である。いわば凡庸な人間の感じる人生の時間尺度である。そして、このジャネーの法則に基づけば、大体20歳前後の時、人は自らが感じる人生の半分を過ごしたことになるというのだ。

 とはいえ、未来に希望を持ちたい私にとって、この説は直ちに受け入れ難い。ある年数の感じ方を単純に反比例的に考えるジャネーの法則が唯一解なのか、他に尺度はないのかという疑問が当然生まれる。そこで私が提唱するのがNHK朝ドラの構成から見た人間の一生の体感である。人生の終わりに見る走馬灯は、朝ドラ全編のような割合になっているのではないだろうか。

 これは朝ドラに残るような偉人、人生を成功させた者たちがどのような時間の感覚で生きてきたかを、功績ベースで把握することができるという利点を持つ。ジャネーの法則が一般的な凡庸な人々の平均値を示すのに対し、朝ドラの尺度は偉人ベースであるから、超ドレッドノート級に大器晩成型(多分成る前に死す)の私にはもってこいの尺度である。

 もちろん、朝ドラ尺度は弱点も持つ。朝ドラは子役だとかキャストだとかの関係で一部偉人の重要な出来事に沿った平等な扱いがされないことと、単に実在する偉人をモデルとした朝ドラが制作されることが少ないという点である。全108回の朝ドラのうち、史実をベースとしたモデルがいるのは33作品、残りは脚本、書き下ろしである。しかも33作品のうち約半数にあたる12作品は、放映当初にモデルとなる人物が生きているため、そのすべての人生を描くことが不可能である。あるいは、良妻賢母が称揚された初期の4作品は偉人の母等、いわばタカを産み育てたトンビに焦点を当てた作品であるので、この尺度に使用することができない。

 これらの弱点を克服した僅か17作品に当てはまる稀有な作品の一つが、この間まで放映された朝ドラ「らんまん」の主人公である槙野万太郎(実在のモデルは牧野富太郎)であった。もちろんその細部については史実に忠実ではないが、この希少性を考えるだけでも、富太郎を基準とした偉人の人生尺度は十分考察に値すると思う。

 そこで、月~金の1週ごとに1話と考えたとき、全26話の各回においてそれぞれ中心となる万太郎の年齢を書きだしてみる。

 5,9,18,18,18,20,20,20,20,20,20,21,21,21,22,22,23,24,25,28,31,32,35,36,50,65

そう、これが冒頭の、生から死に至る数列の答えなのである。

ちなみに、富太郎は75歳で死去している。そこで比較のため、物心つくのが3歳ころ、死去が75歳と仮定した場合における、ジャネーの法則を26に分割し補正した数列をみてみると、3,4,4,5,6,7,8,9,10,12,13,15,17,20,22,25,29,33,37,41,46,52,58,64,70,75
となる。これはあまりに子供時代に重きが置かれているような印象もある。20歳に至るまでが約半分。まさに凡庸な人生の模式図ということができる。

 よって私は、ここまで充実した子供時代を過ごした記憶はないから、凡庸な人間ではないことが示された。

 一方、朝ドラでは青春時代である20代前半に多くの回が割かれている。一般に大学生の年齢である18から22歳が全体の過半数になっている。結果として、子供時代の占める割合は、朝ドラの法則<ジャネーの法則となっているが、25歳以降の占める割合もまた、朝ドラの法則<ジャネーの法則となっている。

 よって私は、ここまで充実した青春時代を過ごした記憶もないから、偉人でもないことが示された。

 したがって、私は突如、袋小路に行き詰まる。30代以降を充実させたいと目論む私は、ジャネーの法則にも朝ドラの法則にも私自身が当てはまらないと信じるしかない。だがそれはすなわち、偉人でも凡庸でもない、凡庸未満である自分を受け入れるということに他ならない。大器、いや、待機晩成型の私が当てはまるべき第3の法則があるとすれば、それはただデクの坊の作る蜃気楼のようにダラッとした未来、秋の過ぎる早さに毎回驚いているくらいしかイベントのない未来、再放送に再放送を重ね、擦り切れてしまうような、そんな未来のない未来を正確に示すような、凡庸未満の人間を指し示す法則でなければならないのだ。私は不承不承に、この恥ずべき体感をMの法則として提起したい。

 今回の考察で学んだ内容をまとめよう。本論の成果は2つある。まず、人生において感じる、または編集される時間は、時計の針が示す時間とは異なっているように思われるという印象から、1.ジャネーの法則を示し、そのほかの尺度として2.朝ドラの法則を提起した。

1.偉人:朝ドラの法則:青春時代中心
2.凡人:ジャネーの法則:子供時代中心

次に、1.と2.の比較と自らが感じる違和感を端緒として、1.と2.の否定から虚数のように現れる第3の法則を示唆した。

3i.凡人未満:Mの法則:未来のない未来中心

もし1.2.の否定から生まれるのではない、積極的な3.を打ち立てることができれば、それは子供時代も青春時代も否定形の過去完了となった凡人未満の人にとって、未来にこそ意味が見いだされるという一縷の新たな望みとなるだろう。その時に生まれる3.の法則は、凡人未満だけでなく、偉人だって凡人だって、それぞれの未来に向かって今を必死に生きてきたし生きているという当たり前の事実を肯定する力を持つものになるはずだ。そして、その法則は俯瞰的な外部から人生のピークを付与されることを拒否するとともに、偉人、凡人、凡人未満などという垣根を超えた、すべての人が体験している今の生放送をピークとすることを肯定し賦活する、そんな普遍的法則になるはずだ。

朝ドラの感想のうち、9割はヒロインかわいいなといったものであるが、残り1割は人類の未来と幸福である。

なお、筆者はテレビを所有していないから、朝ドラの情報はもっぱらSNSであるし、その内容はよく知らないことを最後にお断りする。

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