修論を読み返してみた

 前半は、修論を読み返すに至った経緯、読み返した感想を自分用にメモしたものです。後半は、修論を一部抜粋して掲載しています。どんな修論を書いたのかについて、人に説明するのが面倒なうえ、今の自分に聞かれても分からんという気持ちなので、尋ねられたときに答え(てドン引かれ)る用です。


 先日、データの整理整頓をしていたら、捨ててしまったと思われた修士論文データが発掘された。私はデジタルデバイドであるから、こうしたデータをクラウドに保存していない。加えて昨年パソコンが壊れてしまったから、その時に大学以来すべての文章ファイルや写真を喪失したものとばかり思っていた。製本屋に送ったメールの添付データが奇跡的に残っており、今回の発掘に至ったわけである。

 私は人類学におけるA理論(その中心的指導者はLという人である)について研究していた。そのLも昨年亡くなってしまったし、彼自身は十年ほど前から別の発展した理論に注力していたから、100年進歩がないと言われる文系の学問としてもやや時代遅れなことを対象に、学士後半、修士課程の4年間を過ごしたということになる。また、私は当初から博士課程に進まないことを明言していたからこそ、そんな時代遅れな理論を続けさせてもらっていたのだと思う。さらに、通常の大学と異なり、人類学の代名詞とも呼べるフィールドワークを行うのは博士課程に入ってからという大学であったから、私は理論ばかりに研究の力を注ぐことができた。よって、普通はフィールドワークだけで2-3年かかるところ、博士後期課程8年目くらいの先輩を横目に、私は2年で修士課程を修了することもできたのである。思えば随分好き放題させてもらった。

 さて、私は時々、どんな修士論文を書いたのですかと聞かれることがある。しかし、私はそのような問いにいつも曖昧な返答をしていた。表向きには、4年間の研究は数分で語れるほど浅いものではないというのがあったが、本音としては、修二病丸出しの期間など、あまり触れられたくなかったというのもある。そうして答えずにいながら社会人生活を4年半ほど送る内に、私は自分がどのような研究を行っていたのかについて、忘却しかかっていた。忘却とは人間の生存本能である。そんな折、修士論文がデータの海から発掘されたのである。

 論文の特徴は、とにかく非常に読みにくいというものである。約70ページ、8万字の中に図や表は一切なく、強調点なども付されていない。文字ばかりで埋められている。これは4年間私を苦しめてきた教授陣へのささやかな応答として、私がこだわった点である。

 また、序章、終章と3章3節(1章は2節)の作りであり、1節が長い。約100の引用文献を載せており、そのうちの約4分の1がLの論文・文献である。また、論文中、Lの名は引用も含めて212回登場する。以前、酒場でゼミ生のO氏が「君はLを愛してるんだよ」と言っていたが、あれはもしかすると比喩ではなく学問的な事実を言っていたのかもしれない。

 おおむね1段落につき1つの引用文章を扱うペースで論が進んでいく。人類学のスタイルに倣って結論と同じくらい実事例を重視しているが、各引用文章の概要は最小限まで省かれており、引用文章を一読していない人にとっては事例の洪水に流されてしまう。たとえば乳酸菌、貧血、ドアノブ、ホタテ貝、揚水ポンプ、タータンの柄などが1段落ごとに出てくる。学者の書いた100の論文を読まないと、アマチュアの書いた論文を理解できないという、天守閣のない白鷺城みたいな論文である。

 さらに、LがA理論の中で用いる30ほどの独自用語についてはほとんど説明がなく、それらの独自用語は知っている前提で論が進んでいく。Lの文献は文献同士の関わりにも注意が払われる一方、ゼミで半年扱った文献は脚注に押し込められている。議論の都合上、ポストコロニアリズムやジェンダーといった学んできたはずの分野、あるいは社会階級論のBなどの著名な学者は謝罪とともに脚注の一つの中で切り捨てられている。

 加えて、扱う内容もデカい。LのA理論には批判もあるが、そのいくつかはA理論の時空間に対する正確な理解ができていないからだ。このうち空間理解については議論が進んでいるが、時間理解の議論はなされていないから、これを行うのが修論の目的だ、としている。指導教官は、修士で終わるのだから、人生で一番でっかいことをテーマにしなよと言ってくれた。だから私は現在の時空間の大前提に異を唱えたのである。時代によっては火刑に処され禁書となるべき書物だ。

 一応指導教官が専門としている人や理論については反対しないようになっている。これも4年間私を指導してくださった教授陣へのささやかな応答として、私がこだわった点である。

 口頭試問後、「精巧でところどころ面白い議論があり、一部は学術雑誌に耐えられる一歩手前の議論であり、A理論とLに対する思いが伝わってきて、そして読みにくかった。同じ場所で発表を行った心理の人に比べると相当議論は深かったし、なぜ彼らが高い評価を受けているのかは分からない、やっぱり人類学は良いよね」という教授たちの偏見に満ちた評価ももっともなものだと思える。

 と言ってもあまりピンとこないだろうから、ここからは引用等の記述を省略する形で成形した修論の引用を3か所ほど載せておく。3章以降の議論は前提理解が必要な場所ばかりで引用困難。

<序論、本論分の目的部分より抜粋>

本論文はLのA理論における時間性について、これまでも比較的論じられてきた空間性、諸アクターの性質と関係づけながら論じることにより、Aの持つ関係的な存在論としての側面に光を当て、その可能性の再考を促すものである。(中略)このような批判は、人間、非人間からなる諸アクター自体や、諸アクターが運動する ネットワークに注意してきた一方で、諸アクターがネットワークを織り成す時間性に十分 な注意を向けてこなかったと思われる。これは部分的には一般的に時間や空間がアプリオリに存在するものとして措定されており、十分な検討の対象の埒外に置かれていたことに 起因する。だが Aにおいて、時間性は一般的な意味で用いられているわけではない。そこで Aの想定する時間性に着目することによって新たな A理解が促され、その結果これまでの Aの記述にまつわる限界や批判を乗り越える端緒を提示できるのではないか


<1章1節の中で比較的評価の高く、本論分の中でかなり読みやすい、人間と非人間の対称性にかかわる部分より抜粋>

ここで参考にするのは小麦の生産をめぐるHの議論である。かつて狩猟採集を生業としていた人類は、農耕を主体とした生業へと変化した。農耕によって定住化が進むとともに人口が増加し、富の蓄積は部族社会を階層化させた。一般的に、農耕の開始はその後の産業化の端緒として捉えられ、人間の進歩の一つの重要な段階と位置付けられることが多い。そして小麦は現在でも世界の大部分で主要な穀物として栽培され、現在小 麦の生育されている総面積は日本の国土の六倍にも達するという。だがHによると、小麦の農耕が必ずしも人類を幸福にしたわけではない。小麦を生育するためには、日々の水汲みや雑草の除去、肥沃な土壌づくり、外敵から小麦を守るための防護柵の設置などを必要とし、結果として狩猟採集民だったころよりも多くの労働時間を必要とした。これらの農耕にまつわる慣れない仕事は同時に、人類に椎間板ヘルニアや関節炎などの新たな疾病を与えた。さらに小麦が主食化することで栄養バランスが偏り、小麦が不作だった年には大量の餓死者が生まれた。一般に人間が小麦を栽培化 domesticateしたとされている小麦の農耕という現象は、実は人間が小麦に家畜化 domesticated されていることの現れに過ぎない、とHは主張する。

ここで注意すべきなのは、Hが単に人間を主人公とした歴史観から脱却して小麦を主語にして語ることで、栽培化する主体としての人類から家畜化される客体としての人類を描き出したというような、主客の転倒を行っているわけではないということだ。Hはむしろ、小麦を中心的アクターとして描き、それが人間と関わる様子を跡付けることによって、農耕を進歩の一段階として称揚するような歴史観に異を唱えるに至ったのである。小麦は人間と出会う前から自生していたが、地球の温暖化に伴ってその自生地域を拡大し、人類に出会う。採集する作物の一つとして人類が小麦を各集団内に持ち運ぶ際、小麦はそれが小 粒で大量の穀類であるために道に落ち、そうしてできた「小麦の道」が人類に農耕の始まりのきっかけを与えたのだ。小麦と人類が農耕を介した栽培という形で関わりあうことは、定住化やヘルニアなど前述したような変化を人類にもたらしたし、また小麦にも変化をもたらした。たとえば小麦は当初飛び散りやすく収穫するのが難しかったが、品種淘汰や交雑によってその性質が失われた。飛び散りにくくなった小麦は人類にとっての主食となること を促しただろう。このように小麦と人類は相互に影響を与えあいながら変化していったこ とが分かる。したがって、Hが結論した栽培化と家畜化をめぐる主張は、単なる主客の転倒として理解されるべきものではない。小麦と人類のかかわりを追うことによって、当初主客の関係として捉えられていた両者が相互の影響の下に変成していることが明らかにされた。この結果、能動的な栽培化と受動的な家畜化という截然とした区分が曖昧化し、栽培化と家畜化という一連の現象が不分離のものとして立ち現われてきた。Hの議論とは、このように非人間と人間の区別を設けないことが別の二項対立図式を融解させる可能性を もつものであることを示すものとして理解すべき主張なのだ。

 <2章2節、議論の中心であり独創性を出しかけている、時間性にかかわる前半部分より抜粋(先のHとは別人)>

HもPも時間の永遠性を疑うが、Hは過去が永遠に繰り返してきたという考えを批判の対象としたのに対し、Pは未来が永遠に進歩するという考えを批判の対象とする。また、過去が反復して未来が反復しないという一般的な前提に対して、Hは「過去が反復する」という前提を批判の対象としたのに対し、Pは「未来が反復しない(つまり累積的に進歩発展する)」という前提を批判の対象にした。このような方向性の違いはあれ、HもPも反復と永遠という結びつきを揺り動かすことによって、近代人がとらえるような時間概念の見直しを促したのである。

ではLは反復する時間性やこれに伴う進歩しない歴史性を Aの中でどのように用いていったのか。

 余談だが、特に最後の点は現在の自分自身に投げかけられ続けている問いだと考えている。私がもやもやと抱える生きづらさのようなものの萌芽は、修論の中にすでに存在していた。過去を反復し重ねることで進歩していく希望的未来像が虚構であり、らせん階段を下るように反復しながら老いて衰退していく絶望的未来像が実態であることに気づき始める30代の人生とは何か。

 修士入学試験の際、勉強と学問の違いを聞かれ、勉強は答えを見つけるもの、学問は問いを見つけるものだという応答をした。指導教官は、加えてその見出した問いに自分なりの答えを出すことまで必要だと返した。実際2年過ごした中で、私は問いを見つけても一部に答えるのが精いっぱいで、数々の問いの欠片を残したまま修了したように思う。その一部は、今も私の心のどこかに残っている。天に唾する修二病。その副作用は遅れて現れる。

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