芸術探訪――PRISM――

※以下は半年前の出来事につき書かれたものの冒頭部分を抜粋して掲載するものである。芸術について書くことの難しさに挑戦してみたかった。

私の青年時代は、言語で表現することと非言語で表現することを往還していたといえる。

若いころから、一方でスピーチや日誌、語学の習得を通して、自らの言語や論理を錬成し、他方で音楽や旅を通して、自らの情動や野心の源泉を模索した。
言語についていえば、中学のスピーチでは親友を真っ青にさせ、高校時代のふざけた学級日誌は影のファンを呼び込む一方、日誌とは全く関係のない内容が記載されており、小論文と面接という口先八丁で大学に入学した後も(いつかこの話は書く)、東京標準語、英語に加えて、中国語、ロシア語、朝鮮語、ドイツ語を学び、そうして今もプレゼンを行い文章を書く仕事に就いている。
また非言語についていえば、幼少からのピアノと吹奏楽で音楽の表現を試み、旅をして圧倒的な景色や世界に触れ、絶えず爆発し周囲を爆発させてきた。
大学のゼミを選ぶにあたり、フィールドワークという手法を用いて異質な文化それ自体に接近する人類学が魅力的に映ったのも、そうした青年時代の関心の推移に照らせば、言語と非言語のアウフヘーベンをそこに看取した、きわめて必然的な帰結だったのかもしれない。

しかし、だからこそ私は、言語と非言語を往還して表現すること(冒頭、「言語表現と非言語表現の往還」との差異に留意)の限界にも直面し続けていた。

私はいかなる語彙を動員しても、「物や思ふと人の問ふまで」の思いを言語化することはできなかったし、未だに旅先で出会った圧倒的な経験を語るすべを知らない。鍵盤に代わって叩いている職場のキーボードは、若干のエンターキーのアクセントを除いて平板な内容が打ち出されているし、そこに主観が挟まる余地はない。
また、現在社会人となった私は、非言語を用いたコミュニケーションを行うこと自体がめっきり減ってしまった。非言語に触れる機会は時たまの旅と温泉、おいしい料理くらいしかなくなってしまった。私はこうした状況にすっかり閉口しているのだ。当然、閉口してしまっては言語によるコミュニケーションにも支障が出てくる。一日のうち、発する言葉は「ぁぁっす」「ありゃした」「ヨッコラショ」「レジ袋を」くらいのものであるし、書く言葉も業務的なものばかりであって、なんだか青年時代に比べて、自身のコミュニケーションとやらが質的にも量的にも狭隘なものになったように感じる。全くの悪循環である。

そうした中、1000回に1回しか仕事をしないことで悪名高い、ようつべの「あなたへのおすすめ」に導かれ、ある若手音楽家に少し興味をもった。偶々そのコンサートがあるというので、少し前に行ってきた。高松亜衣さんという方のヴァイオリンと角野未来さんという方のピアノによる「PRISM」という公演である。

ようつべで予習をし、ある程度の期待を持ちながら、仕事を決然たる思い(※後注:この部分には嘘が含まれている可能性があります)で切り上げ、私は久々にトーキョーの港湾部に出かけた。

私はピアノを長いことやっていたので、ピアノについては少しわかるが、ヴァイオリンは全くわからない。まだ馬頭琴の方がスーホの白い馬で知っているくらいである。さらに、少人数(アンサンブル)の演奏を聴くことは稀である。とりあえずピアノの手元が見えそうな下手側に席をとった。
以下感想と考察を並べる。

1曲目:鳥の歌。
ピアノの鳥のさえずりの独奏からはじまり、ヴァイオリンの独奏が続く。そして2つの楽器が邂逅し、交わり、1つの旋律を成していく。観客はみなウルトラマンかカボチャという格言があるが、やはり最初だけは皆集中して聞いている。少し低音の響きすぎるのに苦労しそうなピアノであるが、そこはプロであった。というか普段聞いているパソコンでは音響が薄っぺらいのだろうと思う。奏でられた平和への祈りは、古里に音もなく(音楽なのに!)堆積する朧雪のように、軽くも重く、ホール全体に刻み込まれていく。矛盾した表現に思われるかもしれないが、これが非言語を言語に翻訳することの不可能性である。

演奏者(もっぱら高松さんであるが)のトークが始まる。これがそこまで流暢ではないのが、音楽との対比があり良い。大阪公演の後なのでトーキョーの人は反応に乏しくやりにくいだろうとは思うが、私のマスクの下はだらしなく柔和な表情をしていたと思う。一生マスクをしていようかとも思う。

2曲目および3曲目:愛の喜び、愛の悲しみ(クライスラー)。
当初なぜ悲しみ→喜びの順番にしないのかと不思議であったが、聴くとこの順で納得である。愛の只中で無上の喜びに満ち満ちた前者。「とてつもなく悲しくて切ないのに、とてつもなく優しい」表現により、かえって愛そのものが有する喜びが間接的に表現された後者。2つの曲は対比のようであって、その実、志向するところは同じである。どちらの曲も愛の大きさや深さをうたっていたのである。

ところで、愛とは何か。2つの曲を聴いた視点としての暫定的なインスピレーションを遺しておきたい。
2つの曲は、愛という1つの形象が持つ正反対の側面をそれぞれ描いたもの「ではない」と思う。また、愛が喜びも悲しみも含むから愛が大きく深いというのも誤りであると思う。このような理解では、失恋した者がなおも愛を求める理由や、人と人が愛し合える理由など、現実に認められる愛の結果を説明できない。
そうではない。この2つの曲を聴いて感じた愛とは以下のものだ。すなわち、喜ばしい愛も悲しい愛も含め、個人は様々な形の複数の愛を持ち、さらにそれらを包含する愛のイデア(この表現はプラトンが怒りそうだが)がある。どんな形容詞で修飾される愛も、「愛の喜び」も「愛の悲しみ」も、愛のイデアに内在する善きこと(このあたりの言語化は現時点で不可能だが、子孫を遺すという本能に即したものか?)を志向している。この愛のイデアを介することによって、異なる複数の愛を持つ人と人が同一平面上で「愛し合う」ことができるし、幾多の恋の経験にかかわらず、また恋の時系列的な中断や並列(要は離別や浮気)にかかわらず、人は生涯を通して愛なる形象に羈束され続けるのである。恋と愛を持論展開に都合よく使い分けているという批判はあると思うが。そして、愛の大きさ深さとは、各人が複数持つ愛すべてを包含した愛のイデアに由来するのだ。「喜び」と「悲しみ」が表現するのは、「多としての愛」である(一昔前の人類学の議論を参照)。

なお、演奏上の感想としては、個人的には「悲しみ」が生で聴いてこその発見が大きく、またその表現するベクトルに感動した曲であった。また、いずれもワルツのような伴奏であり、左手のベースの柔らかさが心地よい。右手の裏打ちは、ホルンであればそこまで揃うことはないと思ったが、これはもっぱら実体験に基づく感想である。あとここまで柔らかいスタッカート(譜面知らないのでテヌート入っているかもしれないし、マルカートかもしれないが)の表現もよい。「喜び」はスラーの使い方に豪華ながらも上品な感じがあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?