Dさんとの出会い(第4話)

 少し前、特に長かった今年の夏もようやく終わりが見えてきたころ、私は再びDさんに出会った。八王子の師が店を予約してくれたのである。

 私は東京ドーム近くのJR駅に降り立った。Dさんは地下鉄で来ていたから、どこかで落ち合わなければならない。ここは紳士に相手のいる近くで待って遣るのがマナーであろう。

 しかしここで私は自らの陰キャを嘆いた。私は生粋の陰キャであるから、東京に10年居たというのに東京ドームに行ったことが一度もなかったのである。ついでに披瀝すれば、大学に入って10年の間、私はTDLにも一度たりとも行かなかった。行く相手も理由もなかったのである。

 もっとも、私は東京に来て最初の1年間、TDSには足繫く通った。ここは結構楽しい。助手席にクルーを乗せ、眼鏡使用でS字クランクとか坂道発進とか青梅街道とかいったアドベンチャーがあるし、学科教習ではベテランのお姉さんお兄さんがクルマの世界を案内してくれる。トヨタドライビングスクール東京、略称TDS。立川あたりにある自動車教習所である。

 話が逸れた。東京ドームなど魑魅魍魎の陽キャが闊歩する危険極まりない場所だと思っていたから、近づくこともなかった。したがって最寄り駅に放り出された私はどこに行けばよいのかわからない。ここで私には勘が働いた。ドームと言うからには円墳型に盛り上がった方向に行けばよいというのが相場である。小学校の歴史で習った気がする。三内丸山、登呂、吉野ケ里、仁徳天皇等に感謝し、埴輪スタイルでエッサホイサと汗を流しながら線路沿いの坂道を上っていると、やがて私のスマホの現在位置がツツツと動いた。真逆方向である。こいつは5分に1回くらいしか自分の仕事をしない。私はさらに汗を流しながら、今来た道を下ってゆく。またDさんとの待ち合わせに遅れそうになっているのである。待ち合わせダイエットがはかどる。

 さて、そういうわけで東京ドームの横を埴輪スタイルで走り抜け、なんとか地下鉄出口でDさんを待つことができた。

 数分の緊張。緞帳の裏で予ベルを聴いている開演前のような静かな昂奮。

 やがて地下鉄から女性が現れた。この前と異なりモノトーンでまとめたコーデ、小さなカバン、凛と張りつつ優しい目元、名古屋駅のナナちゃんに相似形なまですらりと伸びた細く長い脚、腕の透明感はきっと201色目の白。Dさんである。
「デハユコウカ」
先の坂道トレーニングと緊張のあまり、こちらは歩き方も忘れ、いよいよ埴輪状態で動き出す。

 ロマンス? 否、否! ここは現実。遡ること数か月前、Dさんは、男と付き合い始めていたのである。先の出会いの後、遠距離を理由にあまり連絡を取らなかったのだから、当然のことである。

 私は他人の情事に自ら介入して掻き乱すほど不遜で野蛮ではない。だが、他人の情事に首を突っ込み、甘い蜜をチューチュー吸うことこそが、自らのraison d'etreと心得てもいる。私は今日、Dさんの最近の様子についても聞いてみたいと思っていた。

 小さな水場のある中庭を抜けると、ウェイターが快く私たちを出迎えてくれた。壁を取り払った開放的な室内には、ワインを片手に論議するオジサマ、団欒を愉しむ子連れなど、多くの人でにぎわっていた。カタカナの羅列に目を回しながら、とりあえず良さそうな品を決め、食事を待つ。ほどなくピザとパスタ、サラダが運ばれ、私たちはやや遅めの昼食を開始した。

 Dさんはコスプレをするという。その写真を幾葉か見せて貰った。彼女は自ら製作した衣装を身に着け、何にでもなることができる。Dさんは一つの世界を纏って被写体になる。彼女はまた、自分を世界の中で美しく見せることに力を注ぐ。「作業部屋」での忙しい日々があり、今欲しいものは便利な鑢だという。さらには、写される側から写す側への興味も湧いてきたという。非常に生き生きとした話である。

 私はものを書き続ける。その場面に写真はなく、ただ幾分かの言葉があるのみである。私もその世界を纏って主人公となる。私はまた、絞り出される光を求め、自分の醜い面にフォーカスし続ける。部屋での作業は遅々として進まず、今欲しいものは他人を慮る能力と金だ。この世界では、写される側は写す側であり、対象に興味を持つことはナルチシズムと紙一重である。非常に殺伐とした世界である。

 Dさんはキラッキラした自分の趣味をキラッキラしながら語るが、本人は趣味に意識が向いているから、その瞬間に自分が最も輝いていることを意識していない。ここにDさんの隠れた魅力があると言えよう。しかしこれを本人に伝えてしまうと、その魅力が減じられるというパラドックスを持つ。これを伝えるべきか1か月ほど悩んだが、このパラドックスは自分を特別な存在として守るための幻想にすぎないという話を思い出した。

*****

 指揮者が構成員からモテるという一種の集団錯乱はよく世間一般に知られている。紛らわしい話だが、「モテる指揮者がいる」というのは真だ。だが、「指揮者はモテる」というのは偽だ。前者の例は具体的に出さずとも、音楽をやったことのある人なら身に覚えがあるだろう。後者の例は高校時代の私という1例を示せば論証終了である。

 とはいえ、指揮者本人は楽しく拍を数え、自分の目指す音楽を構成員とともに創り上げているだけである。いろいろ悩むことはあるが、それ以上のことはしていない。しかし構成員は指揮者に何か特別なリーダーシップがあると錯覚する。すると指揮者は必要以上にかっこよく見えるわけだが、当然音楽を創っているだけの指揮者本人はそのような自身の肥大化したイメージに気づいていない。なおも構成員は、指揮者がそのことに気づいていないということ自体にさらに惹かれる。かっこいいことを意識せずに指揮を行えるのは、自身に余裕があるからだ、という更なる幻想だ。指揮台がちょっと高い位置にあることとも相まって、構成員は指揮者に対して謎の包容力や寛大さを感じる。と同時に構成員は、「指揮者自身も知らない輝いている彼の一面を知っている自分」の視点を得ることにより、それに気づいた構成員自身を指揮者より1つ上の位置に引き上げようとする。

 指揮者(+)と構成員(-)があり、幻想の指揮者像(+’)を踏み台にして、指揮者自身の知らない面を知っている自分を最上位(++)に位置付ける。指揮者がモテる集団錯乱の一部は、このような構成員の個別的で保守的な地位獲得競争に起因する。

 さて今、私も同じことをしようとしていたのではないか。Dさんのコスプレ(+)に対する私の物書き(-)があり、Dさんも知らない輝き(+’)を見つけた気になって自分を上位(++)に格付けようとする浅ましい精神。これは中学校くらいの時に男子が共有する、「可愛い子が可愛いものを見て可愛いと言っているのが可愛い」というテーゼの変形であり、思春期のうちに乗り越えるべき命題なのであった。

 私は冷笑しながら彼らの指揮の裏拍を打ってきたし、最後のB♭-D-Fの和音ではGとかCとかのハモりに心酔していたから、このことに気づくのがずいぶん遅れてしまったように思う。

*****

 Dさんはそんな私の懊悩に気づかず、無邪気に自身の魅力について知りたそうにしていた。私は口の中に含んだティラミスの甘さが沫雪のように崩れ、繊細乍ら馥郁とした苦みが鼓索神経や舌咽神経に伝わり流れるのを任せながら、この人の本当の笑顔を私は引き出せないだろうな、と思った。

 趣味の違いとか価値観の違いとかいう陳腐な話ではない。私は、彼女のピュアな輝きに真正面から向き合うことができないのである。或いは、彼女の輝きの先に、自らの醜さのみを看取してしまうのである。要するに私には、Dさんの輝きを受け止める度量も器量も持ち合わせていないのだ。

 この後私は具体的な恋愛の作戦をDさんから指南いただき、二人して店を出た。帰り道、私たちは広い意味での友達となるべきことを相互に確認し、別れた。

 いつか八王子の師も交えて食事でもしてみたいと思う。Dさんの幸せを願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?