「無駄」製作日記 残り97日
確実に日数は減っていく。決して増えることはない。
タイトルにある日数だ。
これは文学フリマ東京までの日数なわけだけれど(そこに「無駄」という雑誌を出すのだ)、同じようにぼくの生きている時間も減っていっている。
別に先が短いわけではない。
人は必ず死ぬ。もちろん、死ぬまで死ぬかどうかはわからないけれど(もしかしたらぼくが不死である可能性だってある。それはぼくが死ぬまでわからない)、おそらく死ぬだろう。死ぬだろうと思って生きた方が良いようにも思う。
命の時間は有限である。
うだるような暑さを経験するのも有限回である(地獄があり、そこでもしかしたらうだるようなどころか本当に茹でられる、しかも永遠に、という可能性はある)。子どもに絵本をよみ聞かせるのも有限回である(しかも、かなり少ない回数かもしれない。子どもはすぐに大きくなる)。
ぼくが死を強烈に意識したのは、子どもが生まれた時だ。誕生と同時にその対称であると考えられる死を意識するのも妙なものだけれど。
もちろん、母や友人の死に際しても死を意識しなかったわけではない。当然その時その時それを意識した。けれど、それはあくまでも他者の死であり、そこから反射した自分の生に過ぎなかった。
子どもの存在がぼくに意識させたのは、ぼくの死後の世界だ。オカルト的な意味合いではなく、ぼくがこの世を去ったあとにも続く世界、いま、ここと地続きでありながら、決定的に異なる、なにしろそこにはぼくがいない、そういう世界が、自分よりも長く生きるであろう子どもの存在により、喚起されたのだ。それは衝撃的であり、背筋の凍るほど生々しいものだった。はじめて死ぬのが怖いと思った。もちろん、常日頃から死ぬのは怖い。しかし、そこまでリアルにその恐怖を感じたことはなかったのだ。
とくにオチはない。
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