ぼくらの罪と罰 兼藤伊太郎

2019年4月19日、池袋で高齢ドライバーの運転する自動車が暴走し、母子をひき殺した。ぼく自身、その亡くなった母親と娘と同じ年頃の妻と娘を持つ身だから、当然残されたご遺族の方々、特に夫であり父親である男性に感情移入しないわけにはいかない。ぼくがそうだけれど、日常は日常的に続いていくものと考えていたし、信じていたに違いない。誰だってそうだろう。そこに断絶がありうるなどということを疑いながら生きるのはむしろ困難だ。それと同時に、ぼくは日常的に車を運転するので、潜在的に加害者、ひき殺す立場になってもおかしくはない。おそらく、このドライバーにとってもそれは日常であり、断絶がそこにあるとは思いもしなかったはずだ。ぼくだってそうだ。自分が事故を起こすということを想像するのはなかなか難しい。なにしろそれまで、事故を起こすまでだいたいの人は事故を起こしていないからだ。自分は事故を起こさないと思い込んでもなんの不思議もないだろう。

日常は日常として流れ、何事も無かったように過ぎていく。あるいは、そういうこともあり得たのだ。しかし、そうはならなかった。悲劇が起きたのだ。悲劇とはそういうものである。

この事故は高齢ドライバーの免許返納について議論を巻き起こした。それはぼくの今回語りたいことではない。もちろんそれは重要だけれど。

事故後の顛末である。この高齢ドライバーがかなり世間的に功績のある人であったこと、事故後逮捕されずにいることから、「上級国民」なる言葉がネット上で使われ、その「上級国民」であるから逮捕もされず、あるいは罰を免れるのではないか、といったことが言われたこと、それがぼくの取り上げたいことだ。

罰を免れることはよいことだろうか?それがぼくの持った疑問だ。罰を免れたところで、罪は消えないのではないか?人が二人死に、人を二人殺した人間がいる。その事実から免れることはできないのではないか?必要なのは救いであり、それは制度的な罰から免れることでは得られないのではないか?ぼくは神の裁きや、閻魔帳なんて信じていないけれど、それでもある種の「救い」のようなもの、「魂の救済」のようなものはあるに違いないと思うのだ。それは個人的なものではある。誰かに許されることで得られるものではないに違いない。あるいは、どこまでいっても許しなどないのかもしれない。そこに向かおうとする動きの中にこそ「救い」はあるのかもしれない。ぼくにとって、罰を免れるということはそれとは対極に位置する行いである。罰を免れることで「救い」からは遠ざかってしまう、そんな風に感じる。

ぼくのこの事故、そしてその後の世間の風潮に対してもった違和感はこうしたところだ。罰を免れることは「よい」ことではないはずなのに、あたかもそれ「罰を免れること」が「上級国民」ゆえの特権であり、よいことのように語られることだ。

「よりよく生きる」

どうしたらそうなるのか、それを考えるのが、ぼくのテーマのひとつだ。

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