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雑談#13 いつか、あの故郷へ‥‥

 父が亡くなって、もうすぐ一年になる。

 父の死後、パソコンの中に書きかけの自叙伝が見つかった。何か自分史的なものを書いていたのは知っていたが、どの程度まで書いていたのか、どんな内容なのかは知らなかった。プリントアウトして、母、妹とともに読んだ。父はあまり自分のことを話さなかったし、私や妹のことについても、優しく接してくれたがどんなふうに思っているのかを言葉にすることは少なかった。自叙伝を読んで、私のそんなところを見ていたのか、と今更ながらに知って、温かい気持ちになった。仕事については、知らないことがほとんどだった。日本が高度経済成長の時代に入った頃に会社員になり、まさに、日本経済を成長させる原動力として働いた人だった。50代より上の人にとって、青春時代に欠かせなかった「カセットテープ」を世に送り出すため、重要な働きの一端を担った父だった。

 昨年は、Netflixで「愛の不時着」というドラマを観た。大変面白かった。ドラマの舞台が北朝鮮、というところも興味深かった。というのも、北朝鮮は父が幼少の頃、一時期を過ごした場所だったからである。

 父の母方(私にとっては、祖母)の家はもともと、山口県萩市にあったが、明治時代、韓国併合のあと一家で朝鮮半島へ移住し、祖母は釜山で育った。結婚して一時期北海道の函館に暮らし、そこで父は生まれた。そのあと再び朝鮮半島へわたり、今の北朝鮮の清津というところで、6歳まで暮らしていたのだ。

 祖父は缶詰工場を経営しており、裕福だったのかもしれない。もちろん、それは日本の植民地支配と搾取、という土台の上に成り立っていたといっていいものだったが。しかし、日本は戦争に敗れ、父の一家は財産のすべてを失った。1945年8月9日、日ソ不可侵条約を結んでいたソ連(今のロシア)が条約を破り、満州、そして朝鮮半島へと侵攻してきたからである。祖母はまだ幼い二人の子供を連れて、着の身着のまま、侵攻を逃れて済んでいた家を離れるしかなかった。そして、戦争は終わった。しかし同時に、それは「東西冷戦」という新たな戦争の始まりでもあった。朝鮮半島の父の住んでいた土地は、東側の国となり、再び訪れることのできない国となった。

 父は亡くなる7年前、脳梗塞で倒れた。そのときは素早く医療につながることができ、一命を取り止めたばかりか、父の根気強いリハビリもあり、少し足は引きずるものの、ほぼ元通りの生活ができるまでに回復した。しかし心臓にペースメーカーを入れたことで、障害者手帳をもらうことになった。

 もともと、母と一緒によく旅行をしていた父は、これを幸いとばかり(障害者手帳を提示することで、公共交通機関の割引が受けられるため)日本全国、あちこちへ旅行に出かけるようになった。重要伝統的建造物群(重伝建)をリストアップして、旅行を計画、実行した。訪れた重伝建は、180箇所を超えていたと思う。

 体力的には衰えを隠しきれなかった父だが、何がそんな父を旅へと駆り立てていたのだろうか。

 父は幼少に暮らした故郷を戦乱によって追われ、2度とそこを訪れることはできなくなった。終戦直後の大混乱の中、奇跡といってもいいくらいの状況で日本に帰り着いたものの、そこに故郷と呼べるような場所はもともとなく、祖父の親戚を頼って仮住まいをしなければならなかった。そんな父にとって、旅は、「決して帰ることのできないふるさと」を探し求めたいという思いに駆られて、出かけるものではなかっただろうか。

 ニュースで見る北朝鮮と、ドラマ「愛の不時着」で観た北朝鮮とでは、随分と印象が違っていた。本当は、どうなのだろう。父が暮らしていたその時は、どうだったのだろう。父は自叙伝に、自分が住んでいたであろう場所を調べて、その地図を載せていた。冷戦の時代は終わったが、極東のこの場所には、まだ38度線で南北に分けられ、隔てられた国がある。いつかその隔てが解かれたとき、父が幼い頃過ごしたその場所に、行ってみたいと、ふと思う。そこに父の一家の、豊かで幸せな時間があったのなら。

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