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雑談#18 ホモソーシャルへの憧れが、女同士のホモソーシャルな世界を作っている

 少し前から「腐女子」が気になり、なぜ女性の間でBLがもてはやされるのか、なぜ女性オタクは「腐女子」になるのか、というテーマを取り扱った論文などを探しては読んでいた。論文と同様の視点で回答された、ヤフー知恵袋のアンサーも大変参考になった。

それらをまとめると

  • 女性にとってのポルノグラフィ、男性向けが女性の裸にフォーカスするのに対して、女性向けは受けと攻めとの両方にフォーカスする。当事者ではなく傍観者として楽しむ仕掛け

  • 女性の関心が禁断の関係、自己犠牲の愛など「関係性」へ向けられているため

  • 男性が隙になる女性キャラクターと自分とを比べて失望する、あらかじめ自分が傷つくことを避けるために女性を恋愛関係から排除している

  • 女性には、男同士の友情なるものの実態がわからない。だからそれを、恋愛と勘違いして萌える

  • 男性に「エディプス・コンプレックス」(父親に敵意を持ち、母親に恋愛感情を抱く)があるように、女性も同様の秘められた感情があるが、女性は母親と同性であるために、母は結ばれ得ない。よって、ペニスを持つ男性に「変身」することによって女としての母を求めるんだけど、それでは普通のヘテロセクシャルになってしまう。母を求めるのはエロスの愛ではなく実は無償の愛なので、愛する対象である母も男に変身されることで、非性の愛を完成させる(「なぜ、男性同性愛なのか?」 ― 変身願望と対象関係論の視点から ― 打田素之)

 という感じだった。四つ目のはウルトラC的精神分析である。「非性の愛」とか言ってるけど、作中ではふつうに肉体関係結んでたりするやん!そこはどうなんや? と突っ込んでしまった。

 多分、どれが正解、ということではなく、どれも正解なのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、腐女子でない自分が、なぜ腐女子ではないのかと思ってこれらの回答を見た時に、そうであっても自分にだって当てはまることもあり、そう言えることは確かだろうけど、結局のところ、人それぞれなんだろうなと思うしかなかった。

 ところが、先の日曜日(2024年1月21日)に大河ドラマ「光る君へ」第3回で、まひろ(のちの紫式部)が源倫子のサロンが開かれている土御門殿へ招かれた場面を見て「あ!」と思った。

 腐女子とは、男同士の恋愛、ボーイズ・ラブを描いた作品を愛好する女性のことを言うわけで、彼女たちの好む作品に描かれるのは、えてして女性があらかじめ排除されたホモソーシャル(男同士の結びつきや絆、関係性)な世界である。
 そうした世界観の作品を好む読者が腐女子であり、彼女たちは同好の者たちで集まって交流する。まさに、平安貴族のサロンがそうだったように。そこには、男性は入れない。男性ホモソーシャルを描いた作品を通じて、女同士のホモソーシャル社会を作り上げているのである。

 男同士の恋愛という、ホモソーシャルな世界観を作り上げ「腐女子」を名乗って男性を排除することによって、腐女子による擬似ホモソーシャルを実現している、といえばいいだろうか。とすると、私から見れば、男同士の関係性を夢見ながら、現実には女同士としか関係を構築できない社会を作り出している、というねじれが生じている、ということになる。

 そして思うのだ。実は物語の中の男同士の関係性に萌えを感じる彼女たちは、現実に自分と関わる男性との関係性に深く傷ついているのではないか。そのために彼女たちは、現実の世界では男性が必然的に排除されるという趣味の世界で平安を得る。つまり彼女たちが本当に求めているのは、女同士の愛じゃないかと。

 そう考えると、先に上げたウルトラC的精神分析は、その意味では当たっている、といえるかもしれない。

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