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三角コーナー

 桑田孝夫、志茂田ともる、中谷美枝子、そしてわたしは、とある住居の三角コーナーの生ゴミの中から生まれたコバエだ。
 毎日、ダイコンの葉っぱやキャベツなどのくず野菜を食べ、のんきに暮らしていた。
 あるとき桑田が、
「なあ、そろそろここも飽きてきたと思わねえ? ちょっと冒険してみようぜ」と言い出す。
「そうですね、われわれは長居しすぎたかもしれません」志茂田はさっそく乗ってきた。
「いいわね。あたし、冒険がしたくてしかたがなかったのよ」中谷も賛成する。
 わたしはちょっと躊躇した。冒険には危険がつきものだ。何があるかわかったものではない。
 けれど優柔不断なわたしは、みんながそう言うのであれば、従うほうがいいと思い直した。
「そうだね、冒険しようか」不安ながらも賛同する。
 桑田が先頭となり、いっせいに三角コーナーから飛び立った。しんがりを務めるわたしは、もたもたと着いていく。

 住み慣れた台所を後にしてドアの隙間をくぐり抜けた先は、どうやら居間らしかった。
 ちゃぶ台の上には、やや黄味がかった液体の入ったコップが置かれている。
「あの中になみなみと注がれているのは、きっと硫酸だよ」わたしは身震いして言った。その証拠に、プクプクと泡立っている。うっかり足を滑らせたが最後、あっと言う間に溶けて無くなってしまうに違いなかった。
「だったらなおのこと、スリルがあるってものよ」中谷は臆せず縁に舞い降りる。
「落ちなければいいだけの話ですよ」志茂田も平然と、その隣にとまった。
「おい、むぅにぃ。ぐずぐずせず、おまえも来い」桑田が促す。
 わたしは用心しながらコップの縁に脚を乗せた。硫酸の匂いだろうか、ツーンと鼻をつく。覗きこんだ先は、煮え立つ地獄の釜さながらだった。

 中谷が足を滑らせてコップの中に落ちてしまう。けれど、翅を素早くばたつかせ、また縁に戻ってきた。
「危ない、危ない。足の先が硫酸に触れそうになったわ」意外にも落ち着いた口調である。わたしは血の気が失せた。
 コップの縁を一周回って、また元の場所に戻る。
「もう一周歩こうか」桑田が言った。わたしは嫌だったが、雰囲気に飲まれて、うんうんとうなずく。
「おおっと!」桑田がコップの中に落ちかけた。が、これも素早く飛び立って難を逃れる。というよりも、いまのはわざとに違いなかった。アトラクション感覚を楽しんでいるらしい。

 一巡りして、
「さあ、もう一回!」今度は志茂田が号令をかける。わたしの足はいよいよふらついてきた。下をじっと見ていると、吸い込まれる気がする。
「あっ!」わたしはついに足を滑らせ、コップに真っ逆さま。翅をめいっぱい羽ばたいたが間に合わず、とうとう液体の中に落ちてしまった。
 先を歩いていたみんなは一斉に振り返り、
「おいっ、大丈夫か!」と叫ぶ。わたしは液体の表面にプカプカと浮かびながら、おや、硫酸なのになんともないぞ、と不思議に思った。
「大丈夫みたい」わたしはのんきにそう叫び返す。
 体が溶けるどころか、甘く爽やかな味が口の中に染み込んできた。どうやら硫酸ではないようだ。
「待ってろっ、すぐに助けるからな!」勇敢な桑田がブーンと飛んできて、わたしをコップの縁まで引っ張りあげてくれる。

 ビショビショになったわたしを、誰もが気の毒そうに見た。けれど、本人はいたって元気である。
「これ、硫酸じゃなくてレモン・ソーダだよ。ほら、みんなも舐めてみて」わたしが言うと、中谷が恐る恐るわたしの体を舐めた。
「あら、ほんと。甘くておいしいわ」
 その言葉を聞き、志茂田も桑田もわたしを舐めはじめる。おかげで、わたしの体はあっという間に乾いた。
「なんでえ、怖がる必要なんて、これっぽっちもなかったな」桑田ががっかりしたような顔をする。何しろ、彼は命がけの冒険がしたかったのだから。

 突然、玄関のドアがガチャリと開いた。この家の主人が帰ってきたらしい。 
 家の主人は居間へと入るなり、ちゃぶ台の上へコンビニ袋を投げ出した。コップがカタンと揺れる。びっくりして、いっせいに舞いあがった。
「ややっ、コバエがいるぞ!」主人がわたし達を手で追い払う。そのたびに逃げ回った。攻防戦が10分ほど続き、ついに主人は業を煮やす。
「うるさいコバエどもめ。思い知らせてやるぞ」立ちあがると、居間を出て台所に向かった。
「何をするのかしら?」中谷がいぶかしげに目で追う。
「まずいですよ、これは」と志茂田。
「ああ、まずいな」桑田があとを継いだ。「あいつ、殺虫剤を撒く気だぜ。みんな、あの開いている窓の隙間から外に逃げるぞ。急げっ!」
 わたし達は全力で翅を震わせ、命からがら家の外へと飛び出す。開いたままのドアの向こうでは、鬼の形相をした主人が、三角コーナーにスプレーをぶちまけているのが見えた。

「おれ達の生まれ故郷が汚染されちまった」と桑田。
「もう、戻れないのね」中谷がメソメソと泣き出す。
「これからどうしよう……」わたしは途方に暮れてしまった。
「まあ、いいじゃありませんか」志茂田が励ますように言う。「周りをごらんなさい、家ならたくさんありますよ。きっと、素晴らしい三角コーナーが見つかるはずです。探しに行きましょう、わたし達の三角コーナーを」
 降り注ぐ日差しを全身に浴びながら、わたし達は新天地を目指して旅立った。
「野菜くずばかりじゃなく、リンゴやバナナもあるといいね」わたしは期待に胸を弾ませる。
「ああ、そうだ。夕張メロンにシャインマスカット、とちおとめ、でんすけすいか。そんな食べかすでいっぱいの三角コーナーを、おれ達で見つけるんだっ」桑田は力強くうなずくのだった。

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